江戸幕府を倒し、近代日本を創り上げたのは「薩長土肥」と言われるが、水戸藩なくして、維新は成し遂げられなかったといっても過言ではない。長州の吉田松陰も、薩摩の西郷隆盛も、「水戸学」の影響を受けていたのだ。では、水戸学とはいかなるものだったのか――。ハーバードに学び、イェール大学で教鞭を執る新進気鋭の歴史学者マイケル・ソントンが、明治維新を「水戸」の視点から読み解く。
本稿では、徳川斉昭が一度は失脚しながらも再び幕政改革を押し進め、水戸藩主でありながら幕府のご意見番に至った経緯に迫る。
※本稿は、マイケル・ソントン著『水戸維新』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。
藤田東湖による田畑の検地、弘道館の建設、武士の土着化など、いくつかの藩政改革に加え、徳川斉昭は、費用の節約や藩政の統一を図る対策として、江戸の水戸藩邸に常住する家臣のうちから約200名を国元へ戻した。
こうした改革が成功を収めると、斉昭は幕政への関心を高め、天保9年(1838)、『戊戌封事』と題する長大な意見書を幕府に提出する。
それは、賄賂の横行をはじめとする道徳の弛緩、外交問題、財政問題、行き過ぎた商業活動といった、当時の課題への批判と対応策を示し、水戸藩を参考に幕府に改革を促すものだった。
のちに、この『戊戌封事』やその解説などがまとめられて出版され、各地の武士たちの間に広まっていった。また、当時の幕府老中の一人である水野忠邦は、斉昭に丁寧な返事を送り、提案された改革を受け入れる態度をみせた。
天保10年(1839)、その水野が老中首座に就任し、幕府の実権を握った。彼は斉昭の考えに影響を受けつつ、財政再建や奢侈の禁止、農業振興など、いわゆる天保の改革に着手する。
ただし、水野は斉昭の見方と異なる立場もとっている。文政8年(1825)に出された無二念打払令を緩め、天保13年(1842)には天保の薪水給与令を出して、外国に対する融和的な政策に転じたのは、その代表的な例だ。
積極的な国防政策を論じてきた斉昭は、当然のごとく水野の対外政策に激怒した。それでも両者の協力関係が失われたわけではない。
幕府との良好な関係の下で、開放的な性格と率直な物言いで広く信奉者を得た斉昭は、「御三家のリーダー」「幕府のご意見番としての副将軍」といった評価を受けた。それは、彼が幕政改革を推進する基盤の一つとなったのである。
こうした点で、斉昭は成功を収めたといっていいだろう。しかし、水戸藩、国政を問わず、その攻撃的な手法と伝統的な権威への攻撃は、多くの敵を作った。
水戸藩の保守門閥派は改革を嫌い、質素倹約令の締めつけや、藤田東湖のような下級武士の昇進に対して恨みを抱いた。天保10年には70余人が、改革の撤回と斉昭の予定した就藩(お国入り)の延期を強訴している。
幕府側においても、複雑な派閥政治に直面した水野の立場が強固であるとはいえなかった。その上、幕府の改革は混乱をもたらす側面もあり、不満が拡大していた。
したがって、水野の協力をある程度得られたにもかかわらず、江戸と水戸における政治環境は、斉昭にとって安定しているとはいえなかったのである。
財政改革や農業振興を推し進めた斉昭だが、水戸藩の財政悪化に終止符を打てなかった。藩の収入を増すために、より野心的な構想として打ち出されたのが、蝦夷地開拓による水戸藩の増封である。
二代藩主の光圀以来、蝦夷地は水戸藩が交易を目指した場所だった。そのことを知っていた斉昭は、天保5年(1834)以降、数度にわたって幕府に蝦夷地開発計画を提出し、その様々な目的を繰り返し主張した。
まず強調したのは国防である。蝦夷地は日本の安全保障上、重要な場所であることを強調し、18世紀末にロシアが南下してきた前後に考えられた蝦夷地統治案を、再び進めるように幕府を促した。
ロシアの脅威に対する「北門」の守りの脆弱さは、「神国の大患」であるとし、幕府が積極的な防衛政策をとらなければ、外国から侮りを受ける危険性があることを暗に述べている。
「農業などの移民を奨励し、蝦夷地、千島列島、樺太といったアイヌの土地を、完全に日本の統治下に置く」ことを、斉昭は主張したのである。しかし、寛政11年(1799)、幕府は蝦夷地を天領化したが、文政4年(1821)に松前藩へ返している。つまり、幕府は直轄化に失敗した過去があった。
幕閣は蝦夷地開発の必要を認めつつも、斉昭が天保10年に提出した大胆な提案を、受けつけようとしなかった。この時の提案は、水戸藩を嫡子に任せ、斉昭が家族とともに蝦夷地へ移住するというものであった。
具体的には、若い家臣たちや農民・職人を水戸から引き連れていき、蝦夷地に城と町を作って広大な植民地の中心地に据え、蝦夷地を一大穀倉地帯に変える。この植民地を日本の北辺防備の要とする、という考えであった。
再三にわたって、斉昭はこの意見書を検討するよう幕府に促したが、老中の大久保忠真や水野忠邦は曖昧な態度に終始した。斉昭が北方に独自の基盤をつくることで、幕府に対する潜在的な脅威になりかねないという批判が、幕閣内から出たからである。
・水戸藩内にある改革反対勢力の存在
・幕閣との緊張関係
・領土的野心の証拠として使われてしまいかねない蝦夷地開発計画
ここに斉昭が転落する条件は揃い、反斉昭勢力が反撃を始めるまでに時間はかからなかった。天保14年(1843)、ある程度の協調を保ってきた水野忠邦が失脚し、反改革派が幕政の中心に返り咲いた。
「幕府の特別な配慮」と称して、5,6年の在国許可を与えられ、体よく江戸の政治から遠ざけられていた斉昭は、江戸に呼び戻されてから隠居謹慎を命じられる。天保15年(1844)5月のことである。
幕府が藩主に隠居を申し渡すことは、小藩や外様大名に対しては珍しくないが、御三家の当主に対してはあまり例のないことだった。
この処分の公式な理由として、1.大砲製造と鉄砲の揃打、2.財政難の偽り、3.蝦夷地への執着への疑い、4.浪人の召抱、5.水戸東照宮の祭儀変更、6.寺院破却、7.弘道館の土手の高さ(無断築城の疑い)の7カ条に加え、非公式での追鳥狩の実行などの5点が挙げられた。
これに対して、斉昭は一つずつ理由を述べて反論したが、幕府は取り合わなかった。斉昭は不服ながらも、藩主の地位を13歳の嫡男・慶篤に譲り、江戸の水戸藩中屋敷駒込邸での謹慎生活に入った。
これに伴い、藤田東湖、会沢正志斎、戸田蓬軒など、藩の要人となっていた改革派のほとんどが解任され、蟄居や幽閉の処分にあった。そして、門閥守旧派が藩政の主導権を握り、斉昭の改革は中断するのである。
更新:11月22日 00:05