開国に続いて起きたもう一つの外交的危機は、アメリカとの通商条約締結である。それは、斉昭と幕府との間に取り返しのつかない分断を引き起こした。同時に、水戸藩内における内部対立の引き金となり、中央の政治における水戸藩の影響力の、著しい減退をもたらすのである。
安政4年、幕府はアメリカの通商条約締結の要求を受け入れることを決めた。年末には、その意思を斉昭に伝えたが、当然、斉昭は激怒した。斉昭は押されたままの交渉には形勢逆転が必要だと認識し、大胆な提案を幕府に対して行なった。
「将軍家の一族である私をアメリカに派遣してくだされば、これ以上の友好の証はないだろう」
これは単なる外交使節ではなく、武士や農民、町人の青少年を約300~400名率いて現地に赴く「出貿易」を、斉昭は企図していた。「出貿易」は斉昭の年来の主張だったが、これを行なう代わりに米国が日本から退去することに同意させることで、神国日本が夷狄から護られると考えたのである。
この提案に幕閣は困惑し、老中の堀田は斉昭を「よからぬ人」として、嫌悪感を示した。そして、水戸藩の郷士たちがハリスを暗殺しようとした事件が発覚すると、幕閣は水戸藩を疑うようになる。
安政5年の初頭、幕府は条約の勅許を得ようと朝廷に打診した。朝廷がこれを拒否したことは、幕府の権威に深刻な打撃を与えたが、幕閣は斉昭と水戸の攘夷派が策謀し、朝廷の拒否姿勢を惹起したとして非難した。
勅許をめぐる混乱収束と事態の前進を図るには、幕府権力を強化する有能なリーダーが必要だと老中たちは考え、同年4月、井伊直弼が大老に就任する。近江彦根藩主の井伊は、徳川家に最も忠実な譜代大名・旗本らを率い、西洋との条約を締結する断固とした意志をもっていた。
大老となった井伊は、親斉昭の反条約勢力を政権から追い出し、勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結した。
この報を聞いた斉昭は、尾張藩主・徳川慶恕(のちに慶勝。水戸家と血縁が近い)、子息の水戸藩主・慶篤とともに、許可なく江戸城に登城し、条約の勅許を求めるとともに、将軍継嗣問題などについても井伊に申し入れを行なった(不時登城)。
敬意を欠き、規則を守らない斉昭らの態度に井伊は怒り、斉昭による将軍継嗣を巡る陰謀についての噂を聞いていたこともあって、その要望を拒んだ。同年7月、斉昭は再び幕府から謹慎を命じられ、親斉昭派の処分も行なわれた。
幕府中枢から追放された親斉昭勢力(一橋派)は、同年8月、反撃に転じた。それは、孝明天皇の水戸藩への密勅という形で現れた。いわゆる「戊午の密勅」である。
1.条約無勅許調印に対する譴責
2.斉昭らへの処分への異議
3.大名衆議による幕府運営
このような内容の勅書が、幕府の頭を通り越して水戸藩に下ることは、未曽有の事態である。その対応をめぐって、水戸藩の改革派(尊王攘夷派)は鎮派と激派に分裂し、藩政の安定性をさらに弱める結果となった。
更新:11月22日 00:05