2017年10月02日 公開
2018年09月25日 更新
安政2年10月2日(1855年11月11日)、南関東直下型の大地震がありました。推定震度6。江戸の町に甚大な被害をもたらした、世に言う「安政の大地震」です。
地震発生は夜の10時頃。当時の人々が寝静まった時分で、それだけに倒壊した家屋の下敷きになった人も少なくなかったようです。江戸でも特に被害が大きかったのは、低地の方でした。御曲輪内(江戸城外堀に囲まれた内側)、小石川、小川町、下谷、浅草、本所、深川といった地域です。当時の江戸の人口はおよそ130万人。町人はその約半数で、狭い町人地の安普請の家で暮らしていました。大名家だけでも、被害で死者が出た家が121家。死者の数は2000人以上。一方、町人地の被害は死者が4200人以上、負傷者が2700人以上、倒壊家屋14000軒以上とするデータがあります。
時の老中の阿部正弘(福山藩)、牧野忠雅(長岡藩)、内藤信親(村上藩)の3家の役宅でも、それぞれ死者が20人以上出ており、内藤信親に至っては夫婦揃って瓦礫の下に埋まっていたのを掘り出され、奇跡的に無傷であったといいます。
さて、この地震で江戸の水戸藩邸では、2人の重要人物が命を落としました。戸田忠太夫(蓬軒)と藤田東湖です。2人は徳川斉昭の藩主就任を支援し、斉昭のもとで藩政改革を成功させ、さらに幕府海防参与を務める斉昭の強力なブレーンでした。戸田と藤田をして「水戸の両田」とも称され、尊王攘夷の思想と深い学識を備えていることで、他藩の志士たちから仰ぎ見られる存在でもありました。
戸田は嘉永6年(1853)に幕府海防掛に就任、老中や幕臣・岩瀬忠震(ただなり)らと異人来襲の危険性について、意見を交わしています。 また水戸藩の執政として藩政改革を進め、手腕を振るい始めていた矢先の出来事でした。享年52。なお、後に水戸藩家老となって活躍し、安政の大獄で落命する安島帯刀(あじまたてわき)は実の弟です。
一方、藤田東湖は水戸学の重鎮・藤田幽谷の息子で、その後継者、あるいは水戸学の大成者として知られました。戸田とともに徳川斉昭の藩主就任に尽力し、天保の改革を推進。しかし斉昭が幕府より隠居謹慎処分を受けると、東湖も幽閉蟄居生活を送ることになります。東湖が謹慎を解かれたのは、ペリー来航の前年である嘉永5年(1852)でした。翌年、黒船来航とともに徳川斉昭が幕府海防参与となると、東湖も江戸藩邸に召し出されて、幕府海岸防禦御用掛に任ぜられ、再び斉昭を補佐します。安政元年(1854)には薩摩の西郷吉之助(隆盛)が東湖を訪ね、その人柄に接して、「まるで清水を浴びたかのように自分の心に一点の曇りもなくなり、すがすがしい心持ちになった」と記しています。
その翌年の安政の大地震の夜。東湖は建物が倒壊する前に、いったん庭に脱出していました。 ところが老母が火の始末をしていないことを案じて屋敷内にとって返したため、東湖も母親の身を心配してその後を追います。 そこへ崩れた太い梁が落ちてきました。東湖はそれを肩で受け止め、母親が脱出するのを見届けると力尽きたといわれます。享年50。(写真は茨城県水戸市、常磐共有墓地にある藤田東湖の墓)
もし安政の大地震がなく、戸田と藤田が健在で、引き続き海防参与の斉昭を補佐し続けていたら、その後の幕末の展開も随分変わっていたのかもしれません。現在もそうですが、天象気象によって歴史が変わってしまうのは、運命というべきなのでしょうか。
更新:11月22日 00:05