2019年01月16日 公開
2023年10月04日 更新
徳川斉昭像
幕末、尊王思想の総本山だった水戸藩。その中心人物が、藩主・徳川斉昭である。桜田門外の変を起こしたのが水戸浪士たちであり、最後の将軍・徳川慶喜も斉昭の子であることを考えると、斉昭なくして明治維新を語ることはできない。では、いったい彼は何を目指していたか──。
徳川斉昭を考えるにあたって、まずは水戸藩について押さえておきましょう。
水戸藩は、尾張藩、紀州藩と並ぶ徳川御三家の一つです。
将軍家が跡継ぎに恵まれなかった時のために設けられた家で、いざという時は、御三家から将軍を出すことになります。
ただし、御三家は将軍家の家臣ではなく、幕府の政治には手を出さないことになっていました。幕政を担うのは、あくまでも将軍家の家臣である譜代大名や旗本たちです。
いわば、御三家の当主たちは、幕府とは距離を取り、外から見ているというスタンスだったのです。
ところが幕末、異質な御三家の当主が現われました。水戸藩主・徳川斉昭です。彼は、幕政に積極的に関与していきます。
なぜ、斉昭はそうしたのか。
それは、外圧によって日本が、そして幕府が危機的状況に陥っていたからでしょう。嘉永6年(1853)にペリーが来航して以降、日本は混迷を深め、幕府の権威は失墜し始めていました。
そんななか斉昭は、将軍家を救おうとしたのです。
弘道館
斉昭は寛政12年(1800)、水戸藩の7代目の藩主・徳川治紀(はるとし)の三男として生まれました。
病弱だった兄・斉脩(なりのぶ)の跡を継いで藩主となったのは、文政12年(1829)10月のことです。
藩主となった斉昭は、水戸藩の在り方を徹底的に追求します。
御三家として、将軍家を支えなければならない──それは、祖父・治保(はるもり)や父・治紀より受け継がれてきたものでもありました。
将軍家を支えるためには、今の幕府をどうにかしないといけない。そして何より、将軍家を支える存在として、水戸藩をあらゆる面で強化しないといけない。
そうした考えのもと、斉昭は改革を始めます。
取り組むべき一番の課題は、人事の問題でした。
当時、藩の中には序列があり、執政となれる人材は、家柄の良い、身分の高い者に限られていました。その一方で、たとえ優秀な人材がいても、身分が低ければ引き上げることはできない。
そこで彼は、藩士全体のレベルを上げようとします。身分制度に囚われない教育の場を作ったのです。
そうしてできたのが、「弘道館」です。
弘道館に入学できるのは15歳から。私塾からの推薦が必要です。
ただ、卒業はありませんでした。身分だけでなく、年齢による区切りもなく、千人程の藩士が通っていました。
最年長者の記録はありませんが、少なくとも40代の藩士はいたと思われます。
藩に学校をつくった時期は、全国的に見れば決して早くはありません。
しかし、弘道館が独特なのは、文武、つまり学問と武術だけでなく、精神面も含めた総合的な教育を目指した点です。
弘道館には斉昭の書で、「游於藝(げいにあそぶ)」と刻まれた額があります。これは、『論語』の一節より抜粋されたものです。
「藝」とは礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)の六芸を指します。「文武にこりかたまらず、悠々と芸をきわめる」という意味です。
藩士がさまざまな教養を身につけられるよう、今でいう総合大学の側面を強調していたわけです。
更新:11月23日 00:05