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水戸藩・徳川斉昭が「弘道館」に託した想いとは

2019年01月16日 公開
2023年10月04日 更新

永井博(茨城県立歴史館 史料学芸部長)

弘道館と偕楽園は対の存在

偕楽園
偕楽園

こうした斉昭の想いは、弘道館だけでなく、偕楽園にも表われています。

偕楽園は家臣のほか条件付きで領民にも開放された施設で、心身の保養地としての役割を果たしました。

要するに、弘道館と偕楽園は対になる施設なのです。二つで「一張一弛(弓を張ったり、弛めたりすること)」を表わし、弘道館は一張、偕楽園は一弛に例えられました。

斉昭は、詰め込み式の勉強を好まず、人間としての才能が開花するよう、情操を重視して藩士たちの教育を行なったのです。

なかでも斉昭が最も大切にしていたのは、精神性でした。そして、その大きな割合を占めるのが宗教です。

外国からの圧力を日に日に感じるなかで、彼が特に脅威だと感じていたのは、キリスト教でした。

欧米諸国がなぜ強いか。それは、キリスト教精神によって統一されているから──。

また、カトリックではローマ法王が「王」と位置づけられます。つまり、日本がキリスト教に染まると、ローマ法王に従わざるを得ない状況となるので、戦わずして易々と侵略を許してしまう。

このキリスト教精神に対抗するためには、日本国内で精神的な支柱を確立しないといけないと、斉昭は神道を水戸藩の主軸に据えました。

ただ、神道は自然崇拝のため、教えが存在しません。そこで、それを補うために起用したのが儒教です。

天保9年(1838)、斉昭の名で公表された「弘道館記」の項目の一つに、「神儒一致」が示されました。

神道と儒教、この二つを教えの中心とするために、弘道館の敷地内には鹿島神社と孔子廟が配置されています。

これが、水戸における学問の最大の特色と言えるでしょう。
 

徳川慶喜もまた……

徳川慶喜
晩年の徳川慶喜

斉昭の子で、最後の将軍となった徳川慶喜もまた、弘道館で学んでいます。

ふつう大名の子は、多くが江戸で生まれ、江戸で育ちます。そんななか、斉昭は自分の子どもたちを水戸で育てました。

なぜ、そうしたのか。それは、江戸には誘惑が多いので、子どもたちが勉強しなくなると考えたからです。水戸には、江戸のような遊び場がなく、勉強に集中できると……。

江戸で生まれた慶喜は、生後すぐに水戸へ移り、一橋家に入るまでの九年間を過ごしました。その間、弘道館において6年間、会沢正志斎などの教えを受けたのです。

そのころから慶喜の英邁さは注目されていましたが、やがて将軍職を継いで、幕府を、そして日本を救うことを期待されるようになります。

安政5年(1858)、13代将軍・徳川家定が亡くなります。その少し前から、将軍継嗣問題が起こっていました。紀州藩の徳川慶福を推す井伊直弼を中心とする南紀派と、一橋慶喜を擁立する斉昭ら一橋派の対立です。

結果、南紀派が勝利し、慶福は14代将軍・家茂となります。

勝った井伊直弼は安政6年(1859)、安政の大獄を断行し、一橋派の粛清に乗り出しました。

徳川斉昭もまた、その波を受け、水戸で永蟄居となります。彼が失意のうちに亡くなったのは、その次の年です。享年61。

将軍家を支えるという斉昭の想いは、たしかに半ばで断たれることになったかもしれません。しかしその想いは、弘道館や偕楽園に今も残っているのです。

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