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水戸藩・徳川斉昭が「弘道館」に託した想いとは

2019年01月16日 公開
2023年10月04日 更新

永井博(茨城県立歴史館 史料学芸部長)

「攘夷の巨魁」の悲劇

徳川斉昭は、何においてもコンセプトを立てて道を示す癖がある人物でした。

藩校・弘道館の教育方針をまとめた「弘道館記」の他にも、あらゆるところに自分の考えを知らしめるための石碑を残しています。

自分の考えを文字に起こして掲示する。さらに拓本を作らせて広く配る──斉昭は、発信することをとても意識していたのです。江戸時代を通じて、大名の中では珍しい人種だったと言えます。

また、水戸の藩政改革を、幕政改革のモデルケースにしたいという思いがありましたので、軍事強化や教育、神儒一致の考えなど、水戸藩で実践したものを、幕府に細かく提案してもいます。

彼が発信したものの中でも、最もインパクトがあったのは「攘夷」です。幕府だけでなく、外様大名たちにも手紙を送って、国民の一致団結を図ろうとしました。

ペリーが来航し、開国するか否かが問題となった時、老中・阿部正弘は、開国に反対する攘夷派のカリスマ的存在であった斉昭を登用します。

結局、開国する道を選択しましたが、それによって激化した開国派と攘夷派の争いを収めるために、阿部正弘は堀田正睦に老中首座の座を譲りました。

この時が斉昭にとっても、大きな転換期でした。実は斉昭自身、表向きは強気な発言を続けていても、内心は、条約を結ばざるを得ないだろうと考えていたのです。

しかし、世間が斉昭に期待しているのは、「攘夷」一辺倒で外国と戦う姿でした。水戸だけでなく全国に発信したがゆえに、そうした目で見られてしまったのです。これが斉昭の悲劇とも言えるでしょう。

斉昭は「死ぬまで攘夷の巨魁として貫く」と、福井藩の松平春嶽に対して意思表示をしています。この言葉には、もう引くことはできないと開き直っている節があります。

カリスマ性があったがために、今さら立場を変えることなど、斉昭にはできなかったのです。

尊王攘夷
 

徳川慶喜に引き継がれたもの

徳川斉昭から最後の将軍・徳川慶喜に引き継がれたものの一つに、「尊王思想」があります。しかし慶喜は、父・斉昭とは違うかたちで「尊王思想」を貫きました。

元々、慶喜の尊王思想は、先祖から受け継がれたものに加えて、斉昭の薫陶によって培われたとも言えるでしょう。

幕府が天皇を支える体制として実現する──それが斉昭の尊王思想でした。

ところが慶喜は、将軍後見職としての立場で京都に上って以降、父以外の影響を受け、徳川幕府という形を捨てて尊王思想を貫こうとします。

その結果が、慶応3年(1867)の大政奉還なのです。

もう一つ、斉昭から慶喜に引き継がれたものは、「発信好き」という面です。

元治元年(1864)から慶応2年(1866)の間の禁裏御守衛総督時代に、慶喜を写した最も古い2枚の写真があります。

1枚は、書物などに囲まれながら、何か考えごとをしているかのようなポーズのもの。

もう1枚は、慶喜の左に2挺のライフル銃が置かれているものです。

この2枚は、「文」と「武」を表現した写真と言うことができるでしょう。

当時、写真自体が貴重なものですが、慶喜のように、写真において意図的な演出をした人間は他に見当たりません。

じつは斉昭も藩主に就任してすぐ、自分の肖像画を色々と注文をつけて描かせています。慶喜と同じように、意図的に演出を加えているのです。

発信する力は、慶喜が斉昭から学んだのでしょう。言葉として学んだというより、父を見ていたから、自然と身につけた能力なのかもしれません。

また、慶喜が文武だけでなく、写真や絵など芸術にも関心があったことは、斉昭がつくった弘道館で学んだ6年間で培われたものとも言えるでしょう。

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