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幕末の外交を支えた「西洋料理人」草野丈吉...五代友厚にも認められた手腕とは?

2023年04月26日 公開

朝井まかて(作家)


グラバー園の草野丈吉像

朝井まかてさんの新刊『朝星夜星』が上梓された。舞台は幕末から維新、明治という激動の時代。日本で初めての洋食屋・自由亭を開いた料理人・草野丈吉(じょうきち)と妻ゆきが奮闘する姿を描いている。作品に込めた思いをうかがった。(取材・文=青木逸美)

※本稿は、『文蔵』2023年4月号の内容を一部抜粋・編集したものです。

 

庶民にとっての明治維新を食を通じて描きたかった

――幕末から明治にかけて英傑がきら星のごとく並ぶなか、草野丈吉と自由亭を題材にしたのはなぜですか。

【朝井】庶民にとっての幕末・明治を書きたかったのです。志士や明治の元勲になった人物も大変に面白いですが、なにしろ長崎は海に向かって開かれていた土地。幕末は日本中から有象無象が集まって、まさに情熱と欲のるつぼですから、地元からも非常に面白い人が出てくるわけですね。

そのうちの一人が、『グッドバイ』という作品で描いた長崎の女商人・大浦慶。そして彼女が支援した志士たちが通ったのが自由亭。草野丈吉は当時、非常に珍しかった西洋料理の料理人でした。

志ある者は西洋のことを知りたくてうずうずしていた時代ですから、丈吉の西洋料理を食べながら天下国家を論じる、そんなシーンが浮かんで、いつか彼を書きたいと思っていたんです。

――丈吉のどこに惹かれたのですか。

【朝井】貧しい農家の生まれで、幼い頃から働いて、親きょうだいを養うために振り売りなどもして、やがて出島の商館に奉公しました。

運の開き始めは阿蘭陀の総領事に目をかけられたことで、彼はお供をした軍艦の中で西洋料理とマナー、外国語も会得したんです。料理人としての天稟の才にも恵まれていましたが、何より己の仕事に誠実であった人だと思います。

亀山社中の近くに小さな西洋料理店を開いたのは五代友厚の勧めでした。場所が市中ではなかったことと、料理代が高価にならざるを得なかったために最初は苦戦しましたが、陸奥宗光、後藤象二郎、岩崎弥太郎などが盛んに訪れるようになります。

幕府や諸藩が武器・軍艦を手に入れたくて躍起になっていた頃ですから、自由亭はやがて外国人接遇の場、商談の場へと発展しました。

奉行所は初め日本料理でもてなしていたようですが、欧米人は食に対してとても頑固です。現代のようにSUSHIが大好きな人など皆無に等しく、魚を生のまま食べるなんて野蛮、苦痛、とにかくステーキを食わせろ! だった(笑)。

それで丈吉は外国人饗応のための料理を任されます。まさに時代の要請ですね。料理の腕一本で世を渡り始めたのです。

――丈吉はレストランの次に、大阪でホテルも開業します。

【朝井】明治政府の肝煎りでした。政府は当時、外国人の居留地を定め、移動も制限していましたから、彼らを管理する意図もあったのでしょう。でもビジネスは展開したいわけで、それで丈吉に外国人の宿泊所を開かせます。

食べることと寝ることは、人間としての基本。丈吉は西洋人の風習、好みを体で知っているから、ホテル業でも見事な手腕を発揮します。

諸外国との押し引きは饗応の場で繰り広げられるので、自国の置かれている立場の弱さ、危うさも目の当たりにします。やがて彼は日本という国の普請に役立ちたいという志を持つようになります。大阪を中心とするその後の事業展開を見ると、その強い意志を感じます。

――幕末に丈吉が提供していた西洋料理の豊かさに驚きました。

【朝井】長崎の豪商の屋敷の跡地を発掘調査したら、牛骨がごろごろ出てきたそうです。想像以上に早くから、長崎では肉料理を食べていたようですね。西洋野菜も高価ではありますがすでに入っていましたし、大阪では農家に作らせていたという記録も。

だから本作には、読者にもお馴染みのメニューが登場しています。いまのカツレツはカツレット、スープはソップ、サラダはサラド。丈吉は無学無筆でしたから、耳で憶えた言葉をそのままメニューに使っているのがわかって、私にはそこも興味深いことでした。

――ゆきが亀山社中の面々に振る舞ったサンドイッチもおいしそうでした。

【朝井】あの頃のメニューは資料が残っていないので、ほとんど私が考えたものです。パン屋さんは長崎にすでにありましたし、カツレツもキャベツもあった。それなら、パンに具材を挟もう、と。

私も食べることが好きで、執筆が立て込んでいるとキッチンに立つまでは気が重いんですが、いざ包丁を手にすると気分が変わります。食べたいものを食べたいように作って食べる、これが機嫌良く生きる秘訣(笑)。

 

近代化の道を歩む日本で夫婦はどう生きるのか

――志を持って突き進む丈吉に、妻のゆきは必死でついていきます。ゆきは図体が大きく、「撞(つ)いてもすぐに鳴らない鐘」と喩えられるほど、ぼんやりしている人物に描かれています。あまり女将に向いていないのでは?

【朝井】向いてませんよね(笑)。でも、夫を支える賢夫人なんて、つまらないでしょう。ゆきの資料はほとんどないのですが写真は残っていて、色白で体が大きかったことは想像がつきました。

そこから発想して、料理人の妻なのに料理下手で四苦八苦、抜けているけど、どこか一生懸命な働き者。そのくらいのゆるい設定で書き始めました。あとは夫婦や家族との関係性のなかで、彼女がどんどん歩き出しました。

――丈吉はあちこちに愛人を作って、ゆきを苦しめます。

【朝井】明治の元勲たちと同様、丈吉も実際、女性関係が盛んだったようです。そんなことは真似しなくてもよかろうものを(笑)。

今とは違い女性の抑圧が激しかった時代ですが、それでもゆきが嫉妬するのはごく当たり前の感情です。でも作者としては、嫉妬だけじゃない、違うやり方で乗り越える女性として描きたかった。丈吉とゆきが夫婦としてどう生きるのか、そこを大切にしたかったから。

とはいえ、ゆきの仕返しを書いている時は楽しかったですねえ。原稿を読んだ編集者さんも喜ぶ、喜ぶ(笑)。

――ゆきの視点で描かれているのは、夫婦の物語だからですか?

【朝井】彼女が長命だったことも理由の1つです。条約改正の祝賀の宴(明治32年)までは書きたかったので、長生きしたゆきに見届けさせました。このシーンは私自身が目撃したかったし、読者にも立ち会ってもらいたかったのです。

――在留外国人の治外法権など、不平等条約が日本に与えた影響が書かれています。

【朝井】一般の庶民が不平等条約をどう捉えていたのか。国が対等に扱われないことで、国民が、庶民がどういう気持ちになるのか。当時の新聞の論調も盛り込んで、豆腐屋の親爺に語らせたりしました。

近代化がすべて善というわけではなく、それによって失ったものもたくさんあります。それでも、国を守ることが大前提だったわけで、政治家たちは外交に力を尽くしました。その水面下で、食やホテル業がいかに外交を支えたかが本作の主軸です。

――思いがけないラストシーンに胸が熱くなりました。物語の着地点は決まっていたのですか。

【朝井】いつも、「この人を知りたい」という思いから書き始めます。書きながら知り、対話し、理解を深めていくという感じでしょうか。

だから本作も、何も決めずにスタートしました。危険なやり方ですけれど、綿密にプロットを立てても、どのみち、全然違う方向に進んでしまうので。それにしても、ラストシーンは意外でしたね。私もびっくりでした(笑)。

ことほどさように、小説の中の人物は生きているんです。動いて、誰かと出会って、苦しんで泣いて、それがまた別のところで化学反応を起こす。

刊行前の作業で削る箇所もありますが、今回は加筆も多かったので分厚い本になってしまいました。

それには事情もあって、連載を終えてからですが、丈吉とゆきの娘である錦のお孫さんにお目にかかれました。伺ったエピソードはとても貴重なもので、錦は丈吉の後継者ですし、そこはどうしても加筆したかったんです。

錦は丈吉のことをよく話していたそうです。あんたのひいお祖父さんは、えらい人やった、と。

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著者紹介

朝井まかて(あさい・まかて)

作家

1959年、大阪府生まれ。甲南女子大学文学部卒。2008年、小説現代長編新人賞奨励賞を受賞してデビュー。13年、『恋歌』で本屋が選ぶ時代小説大賞、14年、同作で直木賞、16年、『眩』で中山義秀文学賞、18年、『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、21年、『類』で柴田錬三郎賞を受賞。その他の著書に、『先生のお庭番』『グッドバイ』『ボタニカ』などがある。

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