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日本初の鉄道は海の上? 高輪で発見された「築堤」にみる文明開化の面影

2022年10月31日 公開
2022年11月02日 更新

梶よう子(作家)

東京汐留鉄道舘蒸気車待合之図
東京汐留鉄道舘蒸気車待合之図(国立国会図書館蔵)

明治5年(1872)、日本で最初の鉄道が新橋と横浜の間に敷かれた。その遺構である「築堤」部分が、2020年に発見されたが、その海上に堤を造る工事に携わったのが、著者が『我、鉄路を拓かん』で主人公に据えた平野弥十郎である。海上に鉄道を走らせるという明治初頭の一大国家プロジェクトとは、いかなるものだったのか。

【梶よう子 PROFILE】
作家。東京都生まれ。2005年、「い草の花」で九州さが大衆文学賞、08年、『一朝の夢』で松本清張賞を受賞。著書に、「御薬園同心 水上草介」シリーズ、『我、鉄路を拓かん』『噂を売る男――藤岡屋由蔵』『ヨイ豊』『北斎まんだら』『赤い風』などがある。

※本稿は、『歴史街道』2021年7月号から一部抜粋したものです。

 

築堤が、往時のままの姿で現われた!

2020年秋、多くの歴史ファン、鉄道ファンの心を騒つかせた大発見があった。

同年3月に開業した山手線の新駅・高輪ゲートウェイ西側の再開発エリアから、鉄道の線路を敷くための築堤が姿を現わしたのである。ただの盛土の堤であれば、騒ぐほどのことではない。が、幕末から明治期の地図を見れば一目瞭然。この築堤、海の上に建造されていたのだ。

汽笛一声──。イギリス製の蒸気車が煙を上げ、多くの見物人の歓声の中、完成したばかりの新橋駅を出発したのは、明治5年(1872)10月14日(新暦)のことだ。終着の横浜駅(現・桜木町駅)までの約29キロメートルを一時間弱で走ったという。

築堤は、日本で最初の鉄道が開通した新橋〜横浜駅間の一部、高輪の海岸に沿って、芝から品川までの約2.7キロにわたり海を埋め立てて造られた。なんとドラマチックな光景か。

日本で初めての蒸気車が海の上を行くのを見て、おそらく当時の人々は度肝を抜かれたに違いないし、世の移り変わりを目の当たりにしていると感じただろう。その築堤が、約1.3キロ、美しい石垣も往時の姿を留めて、土の中から掘り起こされたのだ。

2021年4月には信号機跡も見つかった。感激にむせび、滾った。個人的な話であるが、築堤の存在は幾枚もの浮世絵を通じて知っていた。しかし、いくら文献資料に記載があっても、現存する物がない以上、絵師の想像も入っているのでは? と疑問視していたのも確かだ。

けれど、こうして眼前に現われてしまっては──しかも、明治期に活躍した三代歌川広重や月岡芳年らの描いた築堤とほぼ同じではないか。石垣も、舟を通すための橋梁も。疑って申し訳なかったと謝ってしまったほどである。浮世絵は世を写す、と自著にも綴ったことがあるので、汗顔の至りだ。

日本の鉄道計画は、徳川幕府が瓦解してまもなく、大隈重信、伊藤博文らが先頭に立ち、明治2年(1869)から始まっている。欧化政策を推し進めていた明治政府にとって、鉄道は庶民に対してもっともアピールしやすい大事業であったのだろう。

築堤は大正期に行なわれた東京湾の埋め立て、鉄道の複線化などとともにすべて埋められたと思われ、その上を京浜東北線が走っていたのである。

が、2019年4月に品川駅の工事を行なった際、石垣が見つかっており、もしや、という話がすでに出ていたらしい。それが、今回の高輪築堤発見に繫がったのである。

 

軍事関連施設を避けて海上へ

約2.7キロの築堤、しかも海の上にどのように、誰が建造したのか。現代のような重機もない時代である。

が、品川の台場(ペリー来航を機に造られた砲台)建造の技術がそのまま築堤に取り入れられ、石材は、高輪海岸の石垣や、相州(現・神奈川県)から運ばれた石、台場建設で使用されなかった物を流用し、埋め立てには、品川の八ツ山や御殿山を切り崩した土が使われた。

工事の指導は、イギリス人技師のエドモンド・モレル(開業前に病死)や、鉄道の父といわれる井上勝だったが、実際工事に携わっていたのは、大工や石工といった職人だ。

当時の日本の建築は、木造家屋のイメージが強いものの、城郭などの建築技術は江戸期にも引き継がれていたことを思えば、納得できる。

中心的に請け負った棟梁は、薩摩藩、佐賀藩の御用達だが、旧幕府の普請方や作事方といった直参の面々もかかわっている。役目柄、腕のいい職人たちを御用達として使っていただろうし、人脈も情報も豊富だったのだろう。

埋め立てても、波で土砂が流れてしまうことが度々ありつつ、約1年半をかけて完成を見た。海上に堤を築かざるを得なかったのは、芝・高輪周辺には、軍事関連施設があったからである。

築堤には4つの橋が架けられている。橋梁の様子は浮世絵にも描かれているが、それは、漁師や商人らが海から海岸まで舟を寄せるために設けられたもので、高輪周辺の住民が暮らしを守るために要望した結果だという。

生活に寄り添った形で建造された意義は大きい。それにしても、蒸気車が通るすぐ下を舟で潜る気分はどうだったかと思う。

その橋梁部の、研磨された精緻な造りの石垣で興味深いのは、石と石の繫ぎ目に漆喰を用いていることだ。むろん接着という重要な役割でもあるのだが、煉瓦積みを意識しているらしい。

つまり目地である。日本の石垣では見られない。煉瓦造りは西洋文化の香り。それを築堤に施したというのはなかなかお洒落だと思うが、どうだろう。

鉄道が文明開化を彩る一大プロジェクトであったことは確かだが、皆が皆、諸手を挙げて歓迎したわけではなさそうだ。政府内では軍備を優先すべきと猛反対を受け、庶民の間では煙で町が汚れる、騒音があるなどの他、列車が動くのは魔術であり、乗ればどこに連れ去られるかわからないという風評もあったようだ。

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