2022年10月31日 公開
2022年11月02日 更新
さて、五街道の出発点は、今も昔も日本橋。日本最初の鉄道の駅としてもっともふさわしい地だと思うが、選ばれたのは新橋(後の汐留)駅だった。
新橋には、廃藩置県によって政府に接収された龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家、会津藩松平家の大名屋敷があった。その広大な敷地を利用したのである。
駅舎は、アメリカ人建築家のR・P・ブリジェンスによって設計された西洋風の建物だ。二階建て、白い外壁、瓦葺きの屋根。横浜の駅舎も同じで、木造の柱と梁で骨組みを作り、外側には石を貼り外壁とする『木骨石貼り』という建築技法が用いられた。
旧新橋駅は、関東大震災(大正12年〈1923〉)により罹災し、当時の駅舎はすべて失われた。しかし1992年、再開発のため、貨物ターミナルとして使用されていた汐留一帯で発掘調査が行なわれた際、駅舎の基礎が発見されたのだ。
さらに調査が進められると、駅舎トイレから、扇子や簪、財布、印鑑などの日用品が多く出土した。明治時代の人たちも用を足しているときに、"うっかり"があったと思うと、笑みがこぼれる。
明治5年5月、品川〜横浜間の仮開業を終えて、10月の本格開業日には盛大な式典が催され、明治天皇、政府高官、外国大使と琉球国使節が、お召し列車に乗車。新橋〜横浜間を往復した。
式の終了後に一般公開され、詰めかけた人々は約5,000人。開業式の様子を描いた絵では、直垂を着けた男たち、洋装、和装の男女、幟が幾本もはためき、駅舎には提灯、日の丸が翻り、五色の幕が張られている。中には打ち上げ花火を描いたものもある。華やかな式典だったことが窺える。
翌日から一般の乗車が始まり、1日9往復、乗車賃は上等が1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘だった。およその値段ではあるが、明治4年(1871)頃、米10キロの値が約36銭。10キロの米は4人家族でひと月あまり食べられるとすれば、かなりの高額だったといえる。
イギリスの旅行家、紀行作家であるイザベラ・バードの『日本奥地紀行』によれば、上等中等の座席はまばらだが、下等にはたくさんの乗客がいたという。鉄道開業から6年後に執筆された紀行本であるので、その頃には、交通手段として庶民の間にある程度浸透していたのかもしれない。
鉄道開業前の2月、庶民に向けて、鉄道の規則が出されている。乗車前に切符を買うこと、列車が動いているとき乗り降りしないこと、酔って乗らないこと、駅構内、列車内での煙草は禁止、喫煙室で吸うこと、婦人の専用車や待合室には男子立ち入り禁止──などなど20以上にわたっている。
実際に婦人専用車ができたのは明治の終わりだが、鉄道開通にあたり、このような規則が設けられていたことには驚くばかりである。
現代において女性専用車が導入されたのは、なんと2000年。女性に対し電車内で犯罪行為を犯す輩からの防衛措置だけではないとしても、明治時代では規則を破れば、車両、駅構内から追い出され、乗車賃も返金しないとされていた。
対応が緩いか厳しいかは別にして、ともかく鉄道など初めて利用する人ばかり。広く周知させ、喚起させ、利用してもらうことが必要であったのだろう。
線路沿いでは蒸気車から火が飛んで家が火事になったり、列車の間隔があるため線路が子どもの遊び場になったりということがありながらも、庶民に『陸蒸気』と呼ばれ、親しまれていく。
横浜駅は、新橋駅と同じ形の駅舎であったことから、双子舎と呼ばれた。現在の桜木町駅の場所である。しかし、明治5年の開業から15年後、横浜から国府津まで線路が延びることになり、駅舎が移転。が、この2代目の駅舎は、関東大震災で跡形もなく崩れてしまった。
3代目で、ようやく今の場所に建てられた横浜駅。いまだに何かしら工事が行なわれているため、市民は、『日本のサグラダ・ファミリア』と冗談めかしていうことがある。
現在の桜木町駅で注目したいのは、構内入り口の三角屋根だ。明治期の新橋駅、初代横浜の駅の本屋部分の三角屋根を模しているのである。幾度も桜木町駅に足を運んでいるが、全く気づかなかった。構内には横浜の駅舎の歴史が展示してあるというのに。
実は、横浜にも築堤が造られていた。現在のみなとみらいのあたりである。この横浜築堤に携わったのは、江戸生まれの事業家で、高島易断で知られる高島嘉右衛門。
嘉右衛門は、横浜港の埋め立てを行なっていたことから、横浜築堤の建造を命じられ、短期間で見事にやり遂げた。
横浜の築堤はもうすっかり埋め立てられてしまい、面影は微塵もないが、そのあたりは、高島町として嘉右衛門の名だけが残されている。
2022年は鉄道開業から150年という節目の年にあたる。これを機に、かつては近代化の象徴、そして旅客、物流の要となった鉄道がどのような進化を遂げてきたか、その歴史を紐解くのも楽しいかもしれない。
そうした中で、我々の眼前に築堤が現われたのは、偶然ではないように感じてしまう。それは、物書きのいささか穿った想像力のなせる業かもしれないとしても、高輪築堤は、日本鉄道史の黎明期を飾る、そして明治初期の近代化を物語る貴重な遺構であるのは紛れもない事実だ。
取材協力:港区立郷土歴史館 川上悠介 小緑一平 石田七奈子
参考文献:『鉄道考古学事始・新橋停車場』(斉藤進著、新泉社)、『新橋駅発掘──考古学からみた近代』(福田敏一著、雄山閣)
更新:11月22日 00:05