2017年09月02日 公開
2018年08月28日 更新
天保12年9月2日(1841年10月16日)、伊藤博文が生まれました。長州の志士出身で、大日本帝国憲法の起草に尽力し、初代内閣総理大臣を務め、立憲体制の生みの親として知られます。伊藤は幼い頃から豊臣秀吉のような男になることを夢見たといわれますが、まさに「明治の秀吉」と呼ぶにふさわしい人物といえるかもしれません。
伊藤は天保12年、周防国の農民・林十蔵の子に生まれました。嘉永7年(1854)、父親が長州藩の中間(ちゅうげん)・伊藤彦右衛門の養子となったため、博文も最下級の身分ながら藩士に連なることになります。安政4年(1857)、17歳の時に吉田松陰の松下村塾に入門。松陰が伊藤を「中々の周旋家(政治家)になりそうな」と評したのは炯眼であったでしょう。
その後、志士として認められると、文久3年(1863)、23歳の時に4人の若き藩士とともにイギリスに密留学しました。いわゆる長州ファイブです。それまで観念的な攘夷主義者だった伊藤は、イギリスの進んだ文物を見て、即時攘夷は不可能であり、開国し富国強兵を実現した上でなければ攘夷は成しえないと気づきました。時あたかも長州藩に四国連合艦隊の報復攻撃が迫っており、それを知った伊藤は戦闘を回避すべく急ぎ帰国しますが、戦端は開かれ、長州藩は惨敗。しかし、高杉晋作の機略もあって講和にこぎつけ、その後、高杉の功山寺挙兵には伊藤が真っ先に協力に駆けつけたことを、生涯の誇りとしています。
維新後は大蔵省の少輔に任命され、「中央財政」を確立すべく尽力します。欧米視察を終えて明治6年(1873)に帰国すると、参議兼工部卿に就任。参議兼内務卿の大久保利通を支えて、「殖産興業」に邁進しました。しかしほどなく大久保は暗殺され、伊藤が先頭に立って、明治日本を近代国家とするために、憲法制定と国会開設という「立憲政治」を目指していくことになります。
明治15年(1882)、伊藤は自ら憲法と国会の調査のためにヨーロッパに赴き、やがてウィーン大学の憲法学者シュタインより、憲法の何たるかを学びました。シュタインが語ったのは、「憲法はその国の歴史と伝統を体現してはじめて、安定的な政治の仕組みを導き出せる」というものです。伊藤はその言葉に、「天皇を中心とする近代国家」建設の方針が間違いでなかったことを確信し、「欽定憲法」すなわち天皇が国民に授ける憲法を目指すという大方針を固めるに至りました。
帰国後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎ら若手とともに憲法制定の準備を進めた伊藤は、明治18年(1885)には太政官制度を廃して、憲法制定を前提とする内閣制度を設置。自ら初代内閣総理大臣に就任します。そして明治22年(1889)、皇居内で憲法制定の式典が行なわれ、明治天皇から時の総理大臣・黒田清隆へ明治憲法(大日本帝国憲法)が授けられました。時に伊藤、49歳。
明治憲法は従来、戦後の日本国憲法に比べて、民主主義の名においていかに遅れていたかということばかり強調されがちですが、実は同時期のヨーロッパの憲法と比較して全く遜色のないほど進歩的なものだったといわれます。たとえば議会による予算決定権などは認められており、政府は衆議院の多数政党の同意を得なければ一円たりとも増税できず、議会の力は決して弱くなかったのです。
そして明治33年(1900)、伊藤は保守政党の立憲政友会を結成し、その初代総裁に就任しました。政党を嫌い、藩閥を擁護する山県有朋などは伊藤を裏切り者扱いしましたが、この立憲政友会から後に西園寺公望や原敬などの首相を生み、明治・大正期の立憲政治をリードすることになります。
伊藤はその後、明治42年(1909)にロシア蔵相と会談するために訪れたハルビン駅で安重根に狙撃されて死亡しました。享年69。立憲政治の実現に向けて常に先頭を走り、自ら度々「火中の栗を拾う」ことも厭わなかった伊藤の姿勢からは、明治日本を自分たちが支えているのだという、現代人には乏しい気迫が満ちていたように感じられます。
更新:12月10日 00:05