徳川慶喜
江戸幕府最後にして、日本史上でも最後の「征夷大将軍」となった、第15代将軍・徳川慶喜(1837~1913)。1866(慶応2)年に30歳で将軍に就任したものの、翌1867(慶応3)年10月14日には、天皇に政権返上を願い出て許されるという「大政奉還」を果たし、260年余り続いた江戸幕府に幕を引いた。
日本のトップの座から滑り落ち、朝敵として駿府(現在の静岡県静岡市)で謹慎生活を送ることになった慶喜。さぞ気を落とし、窮屈な生活をしていたのだろうと思いきや、じつは相当に隠居生活をエンジョイしていたことが知られている。
1913(大正2)年に没するまで、優雅な趣味三昧の暮らしだったという。
将軍といえば政務的な国のトップ。誰もが「なりたい」と願うものかもしれないが、慶喜は「絶対になりたくない」と考えていた。何度も将軍就任を「なって失敗するなら最初からやりたくない」と突っぱねていたが、ムリに将軍にすえられてしまったのだ。そんな慶喜だから、倒幕の流れは意外と「渡りに船」的な感覚だったのかもしれない。
1869(明治2)年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除された慶喜は、本格的に隠居生活を楽しみ始める。慶喜の住まいは現在のJR静岡駅からすぐ近くのところにある「浮月楼」という場所。「平安神宮も手掛けた」という、高名な庭師を京都から呼んでつくらせた美しい庭が自慢だ。この屋敷で庭を眺めつつ、静かな日々を送っていた。近くに鉄道が開通した際に、「汽車の音がうるさい」と引っ越すまでの20年余りをこの地で過ごしている。
趣味人慶喜の趣味はインドア、アウトドア問わず多彩で、インドアだと絵画、囲碁、将棋、能楽、謡曲、手芸。アウトドアでは狩猟、釣り、鷹狩りなどを好んだ。趣味を楽しむために地域のさまざまな場所を出歩いたことから、地元の人びとに「ケイキ様」「ケイキさん」と呼ばれて親しまれたという。反面、幕府関係には冷淡で、ごく一部の親しい人を除いて、かつての家臣などとは距離を置いた。幕府が倒れて困窮する者もいたが、「自分には関係ない」という態度だったとの話もある。幕府という余計なしがらみから逃れ、楽しい生活を満喫するのが慶喜の望みだったのだろうか。
慶喜が最も好んだのはカメラ。屋外の撮影に出かけて、さまざまな風景を切り取った。慶喜の撮影した写真は現代にも残っている。ただし腕前のほうは、ヘタの横好きだったらしく、当時の人気写真雑誌にたびたび投稿しても、なかなか採用されなかったという。
当時はまだ珍しかった自転車も、慶喜のお気に入りだった。撮影や狩猟に行くときには好んで自転車を乗り回していたという。慶喜の愛車はダルマ型(オーディナリー)と呼ばれる、前輪が大きく、後輪が小さいタイプの自転車だったとの話もあるが、違うとの説もあり、どのような自転車だったかはわからない。
しかし、カメラに自転車と最新の道具の趣味を楽しんでいたことから考えると、相当にハイカラで、新しもの好きだったのではないだろうか。
弓道や手裏剣術など、武のトップたる将軍らしい趣味もあった。慶喜はとくに手裏剣術が得意で、「達人の域だった」とされる。駿府に移住してからも、日課となった手裏剣術の鍛錬は欠かさなかったという。
もう一つ、忘れてはならない慶喜が好んだものがある。「趣味」ではないが、隠居生活を彩ってくれた大事な要素。それが「女性」だ。複数の夫人との間に、10男11女を授かるなど子沢山で知られた慶喜。駿府に移った後も、正室のほか、2人の側室も一緒に暮らしていたという。
現代の感覚では違和感があるが、江戸幕府の将軍という立場から見れば、夫人が複数人存在するのも、夫人が仲よくともに暮らすのも珍しくはない。妻を大事にするよき夫だった可能性もある。しかし「サイクリングの途中で美しい女性に見とれてよそ見し、事故を起こした」という話があることも考えれば、単なる女好きだった可能性もある。
徳川家康がつくり、歴代将軍が守った江戸幕府。その幕府の幕を引いた最後の将軍は、歴代将軍のなかで最も長生きし、人生を楽しんだのではないだろうか。
※本記事は、「誰も知らない歴史」研究会編著『日本史・あの人の意外な「第二の人生」』より一部を抜粋編集したものです。
参考文献
『その後の慶喜―大正まで生きた将軍』家近良樹 著(筑摩書房)
『徳川慶喜―将軍家の明治維新』松浦玲 著(中央公論社)
更新:11月23日 00:05