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新門辰五郎~徳川慶喜に信任された幕末の侠客

2017年09月19日 公開
2022年08月09日 更新

9月19日 This Day in History

幕末の侠客・新門辰五郎が没

今日は何の日 明治8年(1875)9月19日

明治8年(1875)9月19日、新門辰五郎が没しました。幕末の火消し、侠客で、徳川慶喜とも親交があり、大坂城から家康以来の金扇の馬標を江戸に持って帰ったことでも知られます。

辰五郎は寛政12年(1800、異説あり)、江戸下谷に煙管職人(飾職人とも)・中村金八の子に生まれました。初名は金太郎。幼い頃、火事で父が焼死。一説に弟子の火の不始末が原因であったため、父は「世間に申し訳が立たない」と火の中に飛び込み自害したのだともいいます。

以来、火事が親の仇となった辰五郎は、16歳の時に浅草十番組「を組」の頭・町田仁右衛門の弟子となりました。そして見込まれて、仁右衛門の亡き息子の名・辰五郎を称します。火消しや喧嘩の仲裁などで頭角を現わした辰五郎は、文政7年(1824)、25歳の時に仁右衛門の娘・錦を娶って養子縁組し、「を組」の頭を継承しました。 また、町田の家が浅草寺僧坊伝法院新門の門番であったことから、辰五郎は新門辰五郎と呼ばれるようになり、浅草・上野界隈を縄張に、2000人ともいわれる子分を抱える侠客としての顔を持つようになります。そして「粋で、腕っ節が強くて、気風がいい」と、江戸っ子たちから慕われる存在となっていきます。

弘化2年(1845)、火事の現場で「を組」の男たちが大名火消と大喧嘩を起こします。相手方18人を死傷させたことで、辰五郎は責任を問われ、罪人として石川島の人足寄場に送られました。しかし、辰五郎は瞬く間に人足をまとめ上げ、大火の火が寄場に迫った折には、人足たちを指揮して消火に活躍。荒くれ男たちをまとめ上げる胆力があったのでしょう。この働きが認められて赦免されます。その後、上野大慈院別当覚王院義観の仲介で、辰五郎は一橋慶喜と知り合い、愛娘のお芳が慶喜の妾となりました。

元治元年(1864)、慶喜は禁裏御守衛総督に任命されて上洛すると、辰五郎を呼び寄せ、子分200人を引き連れた辰五郎は、京都二条城の警備などを任せられています。 慶応4年(1868)1月、前年に大政奉還を行なった前将軍の慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れると、将兵を置き去りにして、大坂城から抜け出し、江戸に逃げ帰ります。この時、慶喜は城内に家康以来の金扇の馬標を置いたままでした。これに気づいた辰五郎は、大混乱の中、馬標を城内から運び出すと、子分たちを動員して、新政府軍がたむろする東海道を突っ走り、無事に馬標を江戸城に届けています。この時、「公方様が権現様の馬標を置き去りするたあ、あんまりじゃあございませんか」などと慶喜を叱ったりはしなかったのでしょうか。侠客の辰五郎が、慶喜の出所進退をどう見ていたのか、気になるところです。

その後、慶喜が上野寛永寺に謹慎すると辰五郎は寺の警備を行ない、また勝海舟に頼まれて、もし西郷吉之助との江戸無血開城の談判が決裂したら、市民を避難させた上で江戸中に火を放つ手筈であったといいます。明治に入り、辰五郎は慶喜に請われて旧幕臣たちが移住した静岡で暮らしますが、知己を得た清水の次郎長に慶喜の警固を託すと、東京に戻りました。

明治8年(1875)、最後まで幕府への義理を果たした辰五郎は、浅草の自宅で生涯を閉じます。享年76。

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