
中国・四川省、成都武侯祠の孔明像。蜀の君主である劉備も祀られている。
「三顧の礼」といえば、三国志において、劉備が諸葛孔明を補佐役として迎えるために、3度訪問した逸話として有名だ。そして、劉備に諸葛孔明を推薦した人物こそ、孔明の師・司馬徽と、学友の徐庶とされる。彼ら2人は何者で、何によって生計を立てていたのか。それを探ると、三国時代の社会構造と、彼らをめぐる人脈が垣間見えてくる。一歩踏み込んだ、三国志の世界へといざなおう。
※本稿は、『歴史街道』2025年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
曹操との力の差が一向に縮まらない、確固とした地盤すら持てない......そんな迷える劉備に諸葛亮、字は孔明を推薦した人物。明代に成立した小説の『三国志演義』はそれを、諸葛亮の師であった「水鏡先生」こと司馬徽と、学友の徐庶としている。
小説であればフィクションが盛られていて当然だが、諸葛亮が司馬徽を師と仰ぎ、徐庶とは学友で、劉備に諸葛亮を推薦したのが司馬徽であることは、史実と見てよいだろう。西晋の陳寿が本文を、南北朝時代の裴松之が詳細な注をつけた歴史書の『三国志』にもそうあるからだ。
諸葛亮と司馬徽、徐庶の3人には、ある共通点がある。
後漢の官吏でもなければ地方の胥吏(非正規の下級官吏)でも、豪族・大土地所有者(大地主)、地方官などの賓客でもなく、それでいながら衣食住に不自由していない点である。彼らはいったい何者で、何によって生計を立てていたのか。
この点に関して真正面から向き合った研究者は、三国志学会事務局長の渡邉義浩氏(早稲田大学教授)がおそらく最初だろう。同氏は彼らの存在を説明するに、「名士」という言葉を用いている。
名士について最も簡潔に説明しているのは2000年刊行の『図解雑学 三国志』(ナツメ社)で、そこには、〈「名士」とは、知識人の間で名声を得て、それをもとに地域社会で支配階層を形成する人々である〉〈名士は知識人の間で名声を得た人々のことで、その名声をもとに地域社会に支配力を及ぼし、三国時代を動かしていった〉などとある。
同書はわかりやすさを追求した書籍だが、これより前の1998年刊行の『諸葛亮孔明 その虚像と実像』(新人物往来社)は専門書のため、より踏み込んだ説明がなされている。
同書は名士を、〈後漢国家の官僚としての地位をよりどころとしたり、後漢時代の支配層である豪族が、郷里社会における大土地所有という経済的基盤を背景に社会的規制力を行使したりすることとは、明らかに異なる存在形態を有する社会階層〉とする。
そのうえで、〈西欧中世の領主のような大土地所有を背景に社会を規制する存在とは異なり、「名士」はその専有する文化的価値によって郷里社会への影響力を持っている〉、〈自分達の理想を実現できる国家、自分たちが主体的に形成する新しい国家において、官僚となり社会的指導者の地位を確保するとともに、自己の理想的な政策を実現していきたい、という抱負を持つ者が多かった〉と定義している。
諸葛亮と司馬徽、徐庶の3人はいずれも荊州、それも荊州刺史(長官)の治所のある襄陽の城外に仮寓していた。
当時の荊州刺史は、景帝(前漢の6代皇帝)の後裔にあたる劉表で、現在の湖北省から河南省の南部を実効支配下に置いており、前掲『諸葛亮孔明〜』は、劉表治下に在住した名士を次の5つに分類している。
1 劉表政権を構成する豪族層
2 荊州学を形成した学者
3 劉表の賓客となった外来の名士
4 劉表の礼遇を拒否し襄陽から去った外来の名士
5 劉表から一定の距離を保つ名士
ここに出た荊州学とは、劉表治下で盛んになった儒学の学問傾向を指す言葉。
劉表自身も山陽郡(現・山東省西南部)出身の名士で、若い時分から「八俊」、党錮の禁(後述)後は「八及」の1人に数えられていたから、いざ地方の実権を手にすると学問の保護に努め、襄陽は荒廃した洛陽に代わり、学問の中心と化していた。
豫州潁川郡(現・河南省中部)出身の司馬徽と徐庶、徐州瑯邪郡(現・山東省東南部)出身の諸葛亮は右に挙げた5分類のうち、外来の名士でも3ではなく5に分類される。
劉表は142年生まれなので、160年代に起きた党錮の禁を目の当たりにしている。宦官を濁流と呼び、自分らを清流とする官僚が、宦官によって官職追放や出仕停止の処分に見舞われた事件で、名士誕生のきっかけでもある。
この弾圧後、全国レベルの名士たちは格付けをし合い、評価の高い順から「三君」「八俊(先の八俊はローカルなもの)」「八顧」「八及」「八廚」と序列化した。劉表は下から2番目の「八及」の1人だが、そこに入れただけで非常に名誉なことであった。
そんな劉表の治める地だからこそ、董卓の乱に始まる動乱で黄河中流域一帯が戦火の渦に叩き込まれると、安住の地を求め、荊州に避難する人びとが続出した。
南北朝時代に編纂された歴史書『後漢書』の「劉表伝」には、「函谷関より西や兗州・豫州の学者で荊州に寄寓する者は、千を単位に数えるほど多かった。劉表はかれらを安心させ支援して、みな経済的に満足させた。そして学校を設立し、広く儒者を求めた」とある。
移住の波は1度切りではなく、興平年間(194〜195年)だけで10万余家に及んだ。1家あたり4人としても40万人が流入した計算になる。名士とその門下生が避難・移住を決めれば、近隣の住民もそれに倣う。そのような雪崩現象が起きたのかもしれない。
諸葛亮の場合、幼い時に父を失ってから従父の諸葛玄に育てられ、諸葛玄の赴任に従う形で弟の諸葛均とともに豫章(現・江西省北部)へ。その後、失職した諸葛玄が旧知の劉表を頼ったことから、諸葛亮も荊州で暮らすようになった。
それに対して司馬徽と徐庶は戦禍を避けるため、避難民として荊州に移住したようである。
同じ郡出身の荀彧と荀攸が曹操に仕え、長安を脱出した献帝も曹操の庇護のもと同郡の許県に腰を落ち着けたのだから、司馬徽と徐庶にも北帰して献帝を支える身となるか、曹操に仕える選択肢があったはず。
のちに徐庶は劉備のもとを去って曹操に出仕するが、それは母が囚われの身となったからで、積極的な選択ではなかった。
司馬徽の場合は年齢のせいもあるかもしれないが、襄陽から動く気がさらさらなかったように見受けられる。どうして曹操になびかなかったのか。
諸葛亮をも含め、彼ら3人が曹操に出仕しなかった理由は2つ考えられる。
1つは曹操が宦官の孫であること、もう1つは父親を殺された報復として、徐州で無差別の大量殺戮を行なったことである。
名士の誕生が党錮の禁にあるのであれば、宦官を濁流として嫌う名士が多いのも無理はなく、曹操の場合、実父の曹嵩が曹騰という宦官の養子になった経緯があり、本来の姓は夏侯とも伝えられる。
徐州の件については気にする者とそうでない者がはっきりと分かれ、諸葛亮らは前者と考えられる。
曹操はともかく、劉表のお膝下で暮らしながら、劉表に出仕しなかったのはどうしてか。この点については、主君と仰ぐに値しないと判断したからと考えられる。
劉表は血筋と学識の点では申し分ないが、世の中をどうしたいという理想や展望、熱意などに欠けていた。袁紹や董卓軍残党の張繡と手を組んだことはあったが、それ以外は保境安民を原則とし、中原の抗争に積極関与しようとしなかった。そのため荊州は緊急の避難先としては重宝されながら、劉表をけしかけて天下をどうこうしようとの空気は生じがたかった。
司馬徽の生年は不明ながら、「好(よきかな)」を口癖とするような人物だから、余生を後進の育成に専念すると決めていた節がある。
それに対して徐庶は、任俠肌で撃剣を得意とする武闘派から謙虚で勤勉な頭脳派に転向した人物。自分の志より母への孝心を優先させるなど、儒教の開祖である孔子が生きていたなら、絶賛されたであろう模範的文人に変貌を遂げていた。
それにしても、司馬徽や徐庶は何によって生計を立てていたのか。
名声に価値があるのは理解できるとして、それは安定した衣食住を約束するものではない。外来の人間で、劉表の賓客になることも拒否していたのであれば、余裕ある生活に必要な土地や家屋、金銭などをどのように入手していたのか。
単刀直入に言って、誰かしら土地の有力者の支援なくしては、雨露を凌ぐ場所の確保はおろか、日々の糧を得ることさえままならなかったはずである。その有力者とは誰か。
最も可能性が高いのは先の分類上5に属する龐徳公という襄陽土着の名士で、豪族と呼んでよい勢力家である。
清末の楊守敬が著した『水経注図』によれば、司馬徽の屋敷は襄陽城外の東を南北に流れる川の東岸に位置し、その川の中洲には龐徳公の隠居所、西岸には龐徳公の従子にあたる龐統の屋敷があった。
3者の住まいが小舟で行き来できる距離にあったのは偶然ではなく、南北朝時代の習鑿歯撰の伝記集『襄陽記』に、「諸葛孔明は臥龍、龐士元(龐統)は鳳雛、司馬徳操(徽)は水鏡であるというのは、みな龐徳公のことば」とあるように、司馬徽と龐徳公は気心の知れた関係にあった。
一方、徐庶の住まいは襄陽城外の西を南北に流れる同じ川の支流の西岸にあり、同じく北方から避難してきた崔州平が隣人だった。崔州平の父崔烈は金銭で司徒(大臣)の官職を買った過去があるから、徐庶は崔家のおこぼれか人脈に与っていたのかもしれない。
どういう性質のものであれ、人脈は異郷で生きていく上で重要だったのである。
更新:10月19日 00:05