中国の歴史には、さまざまな英雄や天才が登場します。歴史書や、それをもとにした小説などを読んでいると、そうした人物の振る舞いに憧れたり、その力や発想にあやかりたいと思うのは誰しも同じではないでしょうか。
しかし、こと歴史から学ぶ、という意味では、英雄や天才のライバルたち──最後には負けて、退場していく人々の方にこそ、学びの糧がしばしばあるのです。
たとえば人気の『三国志』には劉備や諸葛孔明、曹操などの英雄が登場しますが、では現代で彼らに匹敵する人徳や才覚、度量の持ち主が数多くいるかといえば、そうとはいえないでしょう。しかし、逆に曹操に負けた袁紹のような人物ならごく一般的です。ならば、「なぜ袁紹は曹操にやられたのか」という理由を考える方が、より普遍的な教訓になりやすいわけです。
無論そんな袁紹とて、後漢末期に大勢力を張った群雄の一人、並みの人物ではありませんでした。ただし彼は、名家の出身の高いプライドと、個人的劣等感に引き裂かれていました。
実は袁紹、青年時代に不良少年仲間としてつるんでいた一人に曹操がいたのです。曹操は、中国で五指に入る英傑と指摘する専門家もいるほどの人物。文武両道に秀でていて、若き袁紹はいかに自分が彼にかなわないかを痛感させられていました。
そして、奇しくもそんな二人が天下の覇権をめぐって200年に「官渡の戦い」で激突します。名門の袁紹側は、10万を称する大軍を擁しているのに対し、実力で伸し上がってきた曹操軍は1万足らず、曹操自身が後に「極小の軍勢で、とてつもない大軍と戦った(至弱をもって至強にあたる)」と述懐するような大差がありました。
しかし、劣勢だった曹操軍が、袁紹軍の食糧貯蔵庫であった烏巣の襲撃に成功してから、戦況が一変します。袁紹の陣営では、この曹操の襲撃への対抗策が二つに割れたのです。
まず、郭図(かくと)という参謀は、曹操の本陣が手薄になっているはずだから、そこを襲って一挙に決着をつけるべきだ、と主張します。一方、現場で曹操と渡り合っている張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)という武将は、本陣は守りが堅く攻め落とすのは難しいので、襲撃を受けた烏巣救援を優先すべしと主張するのです。
ここで袁紹が採用したのは、烏巣にはわずかな救援軍を差し向けて、本隊は曹操の本陣を攻めるという郭図寄りの折衷案でした。ここまでは、まだよかったのですが、袁紹は何を思ったか、その本陣攻撃の責任者に、烏巣の救援を主張した張郃と高覧を当てたのです。
「やっても失敗しますよ」と主張する当事者にやらせる──この不可思議な心理を解く鍵が、袁紹の「引きさかれたプライド」の問題なのです。
つまり彼は、部下の意に沿わないことをわざわざやらせて、「誰がボスだかわかっているんだろうな」と権力を見せつけなければ気が済まない、そんなタイプでした。張郃と高覧は、必死で曹操の本陣を攻めますが、予想通り守りが堅く攻め落とせません。
しかも、参謀の郭図が、本陣を落とせない責任を二人にかぶせようとしている、という情報が二人に伝わってきます。現代の企業で、経営陣や上司の決めた計画を達成できなかった責任が、現場や部下に押し付けられるのと同じ図式でしょうか。
張郃と高覧の二人は、もうやってられないと、曹操軍に白旗をあげます。袁紹軍の主力がみな降伏してしまうという予想外の結果がここに生まれ、勢いに乗った曹操軍が袁紹軍の本陣に殺到、袁紹側は総崩れになって壊滅しました。
現代でも、いちいち自分の力を下に見せつけないと気が済まないタイプの経営者や上司を見かけることがあります。おそらく不安や自信のなさの裏返しなのでしょうが、しかし、それはいつか寝首をかかれるもとなのです。
※本稿は、守屋淳著『本当の知性を身につけるための中国古典』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月21日 00:05