2019年02月08日 公開
2022年12月21日 更新
中国山東省 孔廟の大成殿
孔子というと、中国を代表する聖人の一人。では、傍から見て、彼のやることがすべて素晴らしかったかといえば、案外そうでもありませんでした。弟子たちの目から見ても、「お師匠さん、どうしたんだろう」「大丈夫かなあ、誰か忠告した方がいいんじゃないのかなあ」と感じるようなことがあったのです。しかし何せえらいお師匠さんですので、誰も諫言なんてできません。そんななかで唯一、孔子にズケズケと物を言えた弟子が子路でした。
彼は、以下の有名な問答からもわかるように、どちらかといえばお調子者のキャラクターのように、後世思われています。
孔子が嘆いた。
「この世の中は、もはや救いようがない。筏(いかだ)にでも乗って、海へ漕ぎ出そうか。ついてくる者は、子路ぐらいだろうな」
それを聞いた子路が、鼻をうごめかした。この様子を見て、孔子が語りかけた。
「子路よ。向こう見ずな点にかけては私以上だな。だが、筏の材料をどこから持ってくるのかね」。
(子曰く、「道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者はそれ由か」。
子路、これを聞きて喜ぶ。子曰く、「由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なし」)『論語』公冶長篇
しかし、これは一面だけを捉えたもの。その実、彼ほど孔子から信頼されていた弟子は少なかったのです。たとえば次のような問答があります。
季氏の家臣の公山弗擾(こうざんふつじょう)が季氏の領地である費(ひ )を占拠して反乱をおこしたとき、孔子を反乱軍に招こうとした。孔子は応じようとしたが、それを見て子路が食ってかかった。
「とんでもないことです。何を好んで反乱に加担されるのですか」
孔子が答えるには、
「私を招くからには、必ず何か考えがあってのことに違いない。だれでもよい、私を使ってくれる者がいたら、この手で周の理想の政治を実現してみたいのだ」。
(公山弗擾、費を以って畔(そむ)き、招く。子往かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして曰く、「之(ゆ)く末(な)きのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん」。子曰く「それ我を招く者にして、豈にならんや。もし我を用うる者あらば、吾それ東周を為さんか」)『論語』陽貨篇
孔子は長らく仕官を願いながら、それが適わず、焦っていました。ですから、たとえときの反乱勢力からでも、仕官の誘いが来ると乗ろうとしてしまったさまが『論語』にも二か所で描かれています。そんなときの止め役が子路でした。孔子はいろいろ言い訳をするのですが、結局、子路の諫言を聞き入れるのが常でした。
そう、孔子にとって「言いにくいことを言ってくれる唯一の弟子」が子路だったのです。
筆者は最近、経営陣を補佐する立場の人に話を聞いたのですが、こうぼやいていました。
「『耳の痛いことを言ってくれ、言ってくれ』と社長や役員が繰り返すので、本当に言うと、すごく嫌な顔をして、後で嫌がらせを受けたりするんです。本当に嫌になります」
孔子ほどとはいいませんが、せめて嫌な顔をせずに話を聞くくらいのことができないと、誰も何も言わなくなってしまうのがオチなんでしょうね……。
※本稿は、守屋淳著『本当の知性を身につけるための中国古典』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月21日 00:05