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呉の名将・陸遜と陸抗父子の悲劇 夷陵の戦いで劉備を破った軍略家の末路

2026年10月13日 公開

島崎晋(歴史作家)

陸遜の故郷・呉郡(現在の江蘇省蘇州市)の盤門。春秋時代には呉の国の都が置かれた地である
陸遜の故郷・呉郡(現在の江蘇省蘇州市)の盤門。春秋時代には呉の国の都が置かれた地である

三国志の蜀を支えた名将といえば、諸葛亮がよく知られている。一方、呉には、陸遜、陸抗という軍略に優れた父子がいた。しかし彼らは、主君から絶大な信頼を受けた諸葛亮とは対照的に、時には主から猜疑の目を向けられることも......。それでも父子は、大局観をもって国を支えていく。知られざる父子の生涯とは──。

※本稿は、『歴史街道』2024年10月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

不遇、孫家との手打ち、台頭...

曹魏・蜀漢・孫呉の3国のうち、曹魏は最も人材に恵まれ、君主である曹操・曹丕当人からして超一流の軍略家だった。劉備・劉禅の蜀漢には、天下3分の計を提示した諸葛亮や龐統、法正らの軍略家がいた。そして、孫堅から子の孫策、弟の孫権に受け継がれた孫呉には周瑜・魯粛・呂蒙がおり、この3人亡き後は陸遜が戦略の考案と実践を担った。

歴史書『三国志』の「陸遜伝」には、陸遜は呉郡の出身とある。現在の江蘇省蘇州市にあたり、春秋時代に呉の国の都が置かれた場所でもある。

陸遜の一族は「呉の4姓」と称される地方名家の1つで、祖父の陸紆は城門校尉、父の陸駿は九江郡の都尉という武官職、従祖父(父の従兄弟)の陸康は廬江太守という郡(州の下の行政単位)の長官職にまで昇進を果たしている。幼くして父を失った陸遜は、この陸康のもとで育てられた。

陸康の人柄は不明ながら、袁術と孫策の2傑を怒らせたのはさすがに拙かった。袁術は「4世3公(4代続いて最高官の3公を輩出)」と称された、全国的な知名度を誇る名家の一員。後漢の命運は尽きたとして、みずから即位することを視野に、淮河下流域を拠点に勢力を拡大させていた真只中、兵糧の供出を拒まれたことを恨み、孫策に陸康の討伐を命じた。

孫策は孫策で、かつて陸康のもとを訪れながら、面会すら叶わなかったことを根に持っていたことから、袁術からの命令をこれ幸いと、陸康所管の廬江郡に猛攻撃を仕掛けた。

事態の容易ならざるを察した陸康は、陸遜を他の親族ともども呉郡へ避難させ、実子の陸績より数歳年上であったことから、陸遜に一族の取りまとめ役を託した。

孫策によって陸康が廬江郡を失った上に病死すると、陸遜がそのまま陸一族宗家の家督を継承した。孫策との和解は無理な相談だったが、敵対関係の継続は双方にとって有害無益でもあった。

やがて孫策が袁術から独立し、不慮の死をとげると、孫権へ代替わりした。それは双方が歩み寄るにまたとない好機で、具体的な経緯はともかく、陸遜が21歳の時、両家の手打ちが成立した。

孫権に出仕した陸遜は幕僚を皮切りに、いくつかの地方官を歴任するが、旱魃に見舞われれば仁政に務め、孫呉への服従を拒否する人びとには硬軟織り交ぜた臨機応変の姿勢で臨むなど、熟練の政治家さながらの活躍を重ねた。

陸遜の実力を認めた孫権は、亡兄・孫策の娘を陸遜とめあわせることで関係の強化を図るとともに、当面の政治的な課題について陸遜に意見を求めるようになった。

当時の孫呉にとって1番の脅威は、曹魏でも蜀漢でもなく、領内の不服従民だった。その中には漢人もいれば山越と称される集団もいたが、険阻な山間部に拠っていた点は共通する。もとは平地に居住していたのが、新たな漢人移住者たちに追われ、山間部に逃れたのだろう。

山越の出自と実像については研究者の間でも見解が分かれているが、「越」の字を付けて呼ばれたからには、やはり春秋戦国時代の越国を構成した越族の後裔、現在のベトナムで多数派を占めるキン族に近い集団と見るのが妥当と考える。

政治的に統一されることはなく、横の連携も弱かったようだが、言語も文化も異なる孫呉には容易に服従しようとせず、孫呉が大規模な遠征を実行するたび、後顧の憂いとなるのは目に見えていた。

統一勢力ではないから、討伐するにしても懐柔するにしても、根気強く個別に対処をしなければならない。非常に骨の折れる事業だが、陸遜は地道にそれをこなしては、降伏した山越から精鋭を選りすぐり、呉の正規軍か自身の部曲(私兵)に編入。不安の種を除くと同時に、軍事力の強化を図ることに成功していた。

孫呉陣営の文武の高官の中で、陸遜ほど不服従民と山越の帰順工作で成果を挙げた者は他にいない。その理由を推察するに、陸康を失ってからの不遇時に味わったであろう経験との関連が考えられる。手を組めそうな勢力に片端から同盟を呼びかけ、その過程で不服従民と山越の内情に通じ、上手い付き合い方を見出したのではなかろうか。

 

関羽と劉備に勝利

地方名家の家庭ならば、蔵書もそれなりに整い、子弟の教育に力が注がれていたはず。陸遜の場合、儒学の経書はもとより、兵法書や歴史書をも熟読したものと推測される。

読書の1番の利点は、他人の経験を通じて自身の経験不足を補える点にある。大きな戦いに参加した経験がなく、対外的にはまったくの無名の存在だった陸遜が蜀漢陣営の関羽を倒すことができたのも、読書の効果と言うことができよう。

歴史書の『三国志』によれば、関羽の討伐は呂蒙と陸遜による合作だが、具体的な作戦を練ったのはもっぱら陸遜だった。

呂蒙は「呉下の阿蒙」や「男子、3日会わざれば刮目して見よ」の慣用句でもお馴染みのように、勇将として名を轟かせてからの猛勉強で、読み書きのまったくできない状態から、魯粛の後継者に恥じない見識を持つまでに急成長を遂げた努力の人だ。

陸遜はその呂蒙から認められただけでなく、頼りともされた。しっかりと教育を受けた人材であれば、短期集中で独学した自分では遠く及ばないほど、兵法の応用に長けていると判断されたのかもしれない。

呂蒙は孫権に対し、自分の代理として陸遜を推薦するに当たり、こう言った。

「彼の名はまだ遠くにまで伝わっておらず、関羽から警戒されておりませんから、彼以上の適任者はございません」

陸遜も陸遜で、孫権から正式な辞令を受け、陸口に赴任すると、まずは関羽に手紙を送り、着任の挨拶をした。

歯が浮くレベルの極端にへりくだった文面だったため、曹操や曹丕であれば裏があると気づいただろうが、この時の関羽は相次ぐ勝利に驕っていたこともあり、孫呉に対する警戒心をすっかり欠いていた。

結果、孫呉陣営の作戦はまんまと図に当たり、関羽の軍は壊滅。関羽自身も虜にされた後に処刑された。陸遜は勝ちに乗じて、荊州内の長江流域全体を支配下に収めた。

関羽軍の後方拠点であった宜都に進駐した時点で、陸遜は撫辺将軍の位を授けられたうえ、華亭侯に封じられる。戦勝が確定すると新たに右護軍・鎮西将軍に任じられ、爵位も進んで婁侯爵に封じられた。

孫権は陸遜の才にすっかり感服していたが、歴戦の勇将たちの受け止め方は大きく違った。「呉の4姓」は、朱氏を唯一の例外として文官ばかり。なおかつ宿将・勇将のほとんどは陸遜と軍事行動をともにしたことがないことから、彼らは武将としての陸遜がどれほどの人物か判別できずにいた。

西暦222年、劉備が関羽の仇を討とうと、みずから東征軍を起こした時もそうである。孫権は陸遜を大都督に任じたが、その指揮下に入るよう命じられた諸将はみな半信半疑でいた。陸遜は、孫呉の命運をかけた1戦を託するに値する人材なのかと。

すでに関羽討伐という実績はありながら、今回の戦いの規模は前回の比ではなく、陸遜の生涯を通じても最大規模の戦いだった。

だが、古今の兵法をすっかり自分のものとしていた陸遜にはまったく不安はなく、劉備陣営からの挑発には乗らず、自軍諸将の逸る声にも流されることなく、ひたすら戦機の到来を待ち続けた。

連戦連勝の快進撃をして来た劉備軍相手に真正面からぶつかるのは愚の骨頂。まずはその鋭鋒を鈍らせ、次には水陸の連携を失わせなければならない。

対峙を開始してから8か月、ようやく機会が到来した。劉備軍の士気は衰え、陣構えは兵法上の禁忌を犯している。陸遜の目からすれば、自分に対して、「いま攻めてください。それも火攻めで」と誘っているも同然で、この絶好の機を逃す手はなかった。

かくして、陸遜の火攻めのもと始まった夷陵の戦いは、孫呉軍の大勝利に終わった。亡国の危機を救った陸遜は輔国将軍の称号を加えられ、荊州牧の職務を任せられるとともに、改めて江陵侯に封じられた。

6年後の228年には、曹魏陣営の大司馬(軍の最高司令官)曹休を領内深く誘い入れる包囲殲滅戦で中央軍の指揮を任され、翌年に実施された論功行賞において上大将軍・右都護の位を授けられた。孫呉陣営の武官としてはこれより上はもうないところまで昇りつめたのだった。

 

信頼から猜疑へ......

西暦244年、陸遜は前年に死去した顧雍の後を継ぐ形で、丞相の職に就任した。孫権と2人、劉備と諸葛亮のように「水魚の交わり」を結べていれば大事をなせたかもしれないが、晩年の孫権はあらゆる面で衰えがひどく、陸遜に対する感情も、信頼から猜疑へと大きく変化していた。

赤壁の戦い当時を知る者から見れば、判断力の衰えは目を覆いたくなるレベルで、弊害の最たるものが、孫権自身の後継者問題だった。

問題の発端は嫡男の孫登が早世したことにあり、新たな皇太子にはその異母弟の孫和が立てられた。幼少の頃から学問好きで聡明。孫登とも仲が良く、孫登の遺言書でも後継指名されていたが、生母の王夫人と全公主(孫権の娘)との不仲によりまさかの大事へと発展する。全公主が孫権の庶子の魯王・孫霸を支持したところ、少なからざる重臣たちがそれに倣ったのである。

孫和を廃して、新たに孫霸を皇太子に立てるべきではないか。陸遜が丞相に就任した頃、後継者問題はすでに深刻化し、孫呉陣営を2分する大問題と化していた。

儒学の教養をしっかり身に付けていた陸遜は孫和支持の姿勢に迷いがなく、荊州牧として都から離れていたため、上書という形で孫権に諫言を繰り返した。陸遜が孫和を支持する理由は次のように単純明快だった。

「皇太子殿下と魯王では差別を付けておかねばなりません。お2方の地位がそれぞれ然るべき所にあって初めて、上下の臣下はみな心を安んじるものでございます」

けれども、孫権は全公主に甘いうえ、孫和とその支持者に向けた誹謗中傷にかなり感化されていた。埒が明かないと見た陸遜は都へ戻り、拝謁を願い出るが、孫権はそれを許さず、陸遜の甥にあたる顧譚・顧承・姚信らが孫和の懐刀になっていると言いがかりをつけるなど、完全に政敵扱いした。そして結果、陸遜はすべての官職を剥奪のうえ、流刑に処された。

その後も孫権からの嫌がらせはやまず、宮廷からの使者が訪れては、陸遜の罪なるものを列挙して責め立てた。

おのれの失策であればどのような罵詈雑言も甘んじて受けるが、使者の口から出てくるのは1方的な誹謗中傷ばかり。心身ともに苛まれた陸遜は、激しい怒りのうちに死亡した。享年63。

 

父親譲りの才覚をもった息子

陸一族の家督は、嫡男の陸抗が継承した。母が孫策の娘であることから、孫権からの当たりも柔らかく、陸遜に対する20条の疑惑について、陸抗が誰にも相談することなく、ひとつひとつの事柄について条理を立てて返答したところ、孫権はようやくおのれの過ちを悟り、陸抗に父の後継として国境防衛の大任を託した。

西の蜀漢とは同盟関係が復活していたため、用心すべきは北の曹魏と、曹魏から禅譲された司馬氏の晋(西晋)だった。

父譲りと言うべきか、陸抗もまた兵法に明るく、曹魏の武将が仕掛けてくる計略をことごとく見抜き、1度として不覚を取ることはなかった。部下たちの心配をよそに、常に最低限の損失で最大限の戦果を挙げたのである。

だが、陸抗は他人を疑うばかりでなく、信用が置けると判断したなら、とことん信用する度胸を持ち合わせていた。陸抗がそこまで心を開いた相手は、晋の車騎将軍・羊祜だった。

東晋の孫盛が著わした『晋陽秋』という歴史書には、陸抗と羊祜に関する逸話が見える。あるとき陸抗が羊祜に酒を贈ったところ、羊祜は部下に毒見をさせることなく、みずから味見をした。

後日、陸抗の病気が再発して床に就いたところ、羊祜から見舞いの酒が贈られてくるが、先に羊祜がそうしたように、陸抗もまったく疑うことなく、心から感謝して酒を味わったという。

同じく東晋の習鑿歯が著わした歴史書『漢晋春秋』には、次のような逸話が見える。家畜が逃げて相手の領内に入った場合、相手国に告知した上で捕獲に出向ける仕組みができ上がり、境界を流れる漢水の岸辺で狩猟を行なった際には、晋の者が先に手傷を負わせた獲物が孫呉の者の手に入ったなら、晋へ送り返すのが慣例となっていた。陸抗と羊祜が2人とも健在な期間に限られたが。

『漢晋春秋』には、病弱な陸抗のため、羊祜がみずから調合した薬を贈った話も見える。配下の中には毒殺を疑う者もいたが、陸抗はまったく疑うことなく、使者の前で飲んでみせた。『晋陽秋』にある酒の話と同じパターンである。

孫呉の重臣の中には、陸抗と羊祜は臣下としての節操を失っていると謗る者があり、4代皇帝の孫晧(孫和の子)から陸抗のもとへ詰問状が送られてきたこともあるが、陸抗はまったく臆することなく、「大国に信義を守る者がおらずにいてよいものでしょうか」などと返書に認め、命尽きるまで羊祜との友好関係を崩そうとはしなかった。

陸遜がそうだったが、子の陸抗もまた稀有な人材だった。周瑜や呂蒙と同じく文武両道にして、大局観では魯粛に引けを取らない。権勢欲もなければ保身に汲々とすることもなく、主君に対する忠誠心では同時期のどの重臣にも勝っていた。

孫呉が世代交代を経てなお命脈を保てたのも、陸父子の存在に負うところが大きい。彼らが長江中流域で睨みを利かせていたからこそ、曹魏と晋の侵攻計画はことごとく潰え、孫呉の歴代皇帝は枕を高くして眠ることができた。

惜しむらくは、4代目の皇帝に孫晧という中国史上屈指の暗君が立てられたことである。攻守の要となるのは西陵(夷陵)の地で、そこの守備を強化すべきとする進言が聞き入れられないまま、陸抗は病死。晋の大軍が西陵を足掛かりとして、孫呉領内への本格的侵攻に着手したのは、陸抗の死から6年後のことだった。

プロフィール

島崎晋(しまざき・すすむ)

歴史作家

立教大学文学部史学科卒。東洋史学専攻。卒業後、旅行代理店勤務を経て、出版社で歴史雑誌の編集に携わり、現在は歴史作家として活動中。著書に『覇権の歴史を見れば、世界がわかる─争奪と興亡の2000年史』『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』などがある。

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