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劉備を支えた張松と法正とは何者か? 諸葛亮に並ぶ蜀建国の立役者

2025年10月17日 公開

島崎晋(歴史作家)

成都武侯祠博物館
成都武侯祠博物館

中国の三国志は、文字通り、魏・呉・蜀の3国が鼎立した時代で、劉備が蜀を建国しなければ、歴史は変わっていたかもしれない。そして、その覇業を支えた人物として諸葛亮がよく知られているが、劉備の蜀平定では、張松と法正という2人の人物が大きな役割を果たしていた。ただ、彼らはそれぞれ欠点を抱えた人物でもあった。

※本稿は、『歴史街道』2025年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

劉備に内応を買って出た男たち

劉備の覇業を支えた人物と言えば、真っ先に挙げられるのは、文では諸葛亮、武では関羽と張飛の名前である。たしかに、この3人の功績は否定しようのないレベルだが、劉備による蜀(益州)と漢中の獲得に限ってみれば、右の3人以外の人名も挙がってくる。益州平定の最大の功労者は張松と法正の2人で、法正は漢中攻略にも深く関わっていた。

劉備に対して、益州の獲得を最初に勧めたのは諸葛亮だった。

「三顧の礼」で出馬を請いに来た劉備に対し、諸葛亮が開陳したのが「天下3分の計」で、歴史書『三国志』の「諸葛亮伝」には次のようにある。

「益州は堅固な要害の地であり、肥沃な平野が千里も広がる天然の庫と言いうるところ。漢の高祖(劉邦)は、この地を元に帝業を達成させました。

いま、領主の劉璋は暗愚で、北に張魯という脅威を抱えており、人口は多く国は豊かであるにもかかわらず、民の暮らしに心を砕かないので、知恵ある人士は明君を得たいと願っております」

諸葛亮はこのように、劉備自身は荊州と益州を押さえ、東では孫権と誼を結び、機の到来を待つ策を進呈した。

劉備はこの時、「なるほど」と応じるのみで、反対も懸念も示していないから、経略の大枠には同意したものと見てよいだろう。

その後、諸葛亮を迎えた劉備は、赤壁の戦いで曹操に勝利。荊州南部を押さえ、益州をうかがうようになる。

ただし、益州の劉璋は前漢・景帝のれっきとした後裔で、後漢の朝廷から正式に益州牧(長官)を拝命した人物だけに、慎重に対処する必要があった。

露骨に益州を奪いに行ったのでは失敗に終わる可能性が高く、とっておきの大義名分を掲げるか、内応者の存在が不可欠で、進んで内応を買って出たのが張松と法正だった。

 

揺れ動く益州の内情

張松は蜀郡の人だから、益州の地元民。別駕従事という刺史・牧の補佐官を拝命していたから、処遇が悪かったわけではなかった。

一方の法正は扶風郡という、遊牧民族の生活圏に近い長安西方の出身。

『三国志』の「劉二牧伝」によると、法正は建安(196〜220)初年、飢饉に見舞われたため益州へ移住したとあり、献帝の長安脱出と時期が重なることから、無秩序化した董卓軍残党の略奪や暴力から逃れるためでもあったかもしれない。

益州では官職にありつくものの、重用と呼ぶにはほど遠く、同郷の人間による誹謗中傷にも悩まされ、張松とよい仲になれたのが唯一の救いだった。

張松と法正に共通していたのは、益州牧の劉璋に対する不満である。

劉璋の父劉焉は荊州の出身であり、張松のような地元民から見れば、帝室の後裔とはいえ、よそ者である点に変わりはない。

劉焉は司徒(内務大臣)の幕僚に始まり、洛陽の令や冀州刺史、南陽太守、宗正(皇族管理官)、太常(祭祀長)などを歴任。益州に赴任してからは硬軟の策を巧みに使い分けながら、秩序の維持に実績を上げていた。

2代目の劉璋は、温厚な人柄ゆえ後継者に推戴されたというが、物は言いようで、史書には「愚かで脆弱」「惰弱」「暗弱」「明晰な判断力に欠ける」「優柔不断で威厳なく」など否定的な評価がちりばめられており、なかでも劉璋の評判をいたく損なったのは東州兵の扱いだった。

歴史書の『三国志』は西晋の陳寿が著わした本文と南北朝時代の裴松之の付けた注からなり、その注に引く『英雄記』という伝記集によれば、劉璋は他州から益州に流れ込んできた数万家族から成年男子を選抜して、東州兵と名づけた。

東州兵が益州の民に略奪暴行を働いても、劉璋はまったく取り締まることができなかった。怨嗟の声が野に満ちるのを見て反乱に立ち上がる者が出ると、劉璋は東州兵と結託してこれを鎮圧。以降、東州兵を私兵化しながら、厳しい管理を怠ったことから、そのツケはすべて益州の一般住民にまわされた。

劉璋の惰弱と東州兵の横暴に対し、家臣団の感情は大きく3つに割れた。

仮にも後漢の朝廷から正式に任命された人物なのだから、劉璋が心を入れ替えるまで粘り強く諫言を繰り返すというのが1つ、劉璋は大事をなす器量に欠けるから益州の主を他の相応しい誰かに替えるというのが1つ、誰かが何とかしてくれるまで我慢するのみというのが1つで、張松と法正は2番目に分類できた。

 

張松、曹操に憤然とする

事態が動き出したのは211年、曹操が関中(長安周辺)を平定して、次は漢中に狙いを定めた頃のこと。

それ以前、劉璋は形だけでも曹操に服属する前提で使いを送り、前後2度までの使いはいずれも歓待された。ところが、第3の使いとして張松が派遣された時、曹操の態度は一転。歓待どころか歯牙にもかけられず、張松は憤然として帰途に就いた。

この張松という人物だが、裴松之の注に引く『益部耆旧雑記』によれば、見識と判断力を有する才腕の持ち主だったが、言動は勝手気ままで、品行方正とはおよそ言いがたい変わり者。

曹操の幕閣で、同じく変わり者で知られた楊脩からは高く評価され、是非とも召し抱えるようにと、曹操に口利きまでしてくれたが、さすがにそれは叶わなかった。

張松が曹操の編纂した兵書を宴会の間にざっと目を通しただけで、たちどころに暗誦する離れ業を披露すると、楊脩はますます張松を特別視したが、それでも曹操の気を引くには至らなかった。

なぜかと言えば、曹操はすでに劉璋とその幕下の人間に興味を失っていたからだ。張松を冷遇した理由は張松がどうこうではなく、すべては曹操の置かれた状況の変化に拠っていた。

関中全域と荊州の一部を獲得したことにより、劉璋の利用価値が激減したからで、張松もそのことを理性では納得できていたはず。だが、感情的には許すことができず、おそらくこの時点で、曹操に益州を献ずる選択を脳裏から排除した。のちにもやってしまうが、張松には大事な場面で思慮不足に陥り、軽率な言動に走る傾向がままあった。

 

劉備、益州に入る

益州に帰還した張松は、劉璋への報告の中で、曹操に対する悪口雑言を並べ立て、交わりを絶つよう進言。その上で劉備のことを最大限に持ち上げた。

時期は定かでないが、張松は劉備との初めての対面の際、下にも置かないもてなしを受けた。それゆえ、「曹操の軍は強力で天下無敵な有様。もし漢中の軍需物資を利用して蜀の地を奪いに出たら、誰がこれを防げるでしょうか」と、劉璋の不安を煽れるだけ煽っておいて、「劉豫州(劉備)は殿の一族に当たるうえ、曹操とは仇敵の間柄。用兵も巧みですから、彼に張魯を討伐させれば勝利は間違いありません。張魯が敗北すれば益州の守りは強化され、曹操が益州を奪おうとしたところで、なす術もないでしょう」と、言葉巧みに劉備を売り込んだ。

すると劉璋は張松の進言をもっともだと考え、これまた張松に勧められるまま、法正を連絡役として、劉備との連携を深めることにした。

法正も法正で、使いとして劉備と対面するたび、何かしら策を提示した。もちろん、柱となるのは次のような劉備の野心を煽る内容。

「殿の英才をもって、劉璋の惰弱につけこんでください。張松は益州の股肱の臣ではありますが、内部で呼応いたします。そのあと益州の豊かな富をもとでとし、天から授かった堅固な地勢を頼みとなさいませ。それらを基に功業を成就するのは、掌をかえすようにたやすいことです」

劉備が益州を奪い取るなら、まずは情報収集に努める必要があったが、張松と法正はそれを代わりにやってくれた。益州領内各郡の広さ、兵器・倉庫・人馬の数量、諸々の要害の位置と様子、領内の道のりなど、劉備から問われるまま詳細に説明し、益州の内情を余さず劉備に教示した。

一連の準備が整ったところで、劉璋から張魯討伐の要請をうけた劉備は、自分の国元へ帰還するようにやすやすと国境を越え、益州に入った。

劉璋は自ら出迎えに参じ、歓迎の宴を主催するなど、友好ムードの演出に努める。劉備も腹に1物あることなどおくびにも出さず、軍を率いて対張魯最前線の葭萌へ赴き、漢中全体に睨みを利かした。

 

二人の対照的な最期

次の年、再び事態が動く。曹操・孫権間で緊張が高まり、孫権から援軍要請をうけた劉備は、劉璋に兵1万人と軍需物資の供与を申し入れた。

益州乗っ取りのためいよいよ行動を起こそうというのだが、張松にはその真意が伝わらなかった。劉備に東へ戻られたのでは、計画が破綻する。慌てて劉備と法正に手紙を送るが、さすがにこれはまずかった。

張松の兄で、かねて張松の言動を不審に思っていた広漢太守の張粛が計画に気づき、連座を回避するため、劉璋に注進に及んだ。

哀れ張松は捕縛され、斬首の憂き目を見るが、もとはと言えば思慮不足と軽率な行動が招いた結果で、責められるべきは当人だった。

その後、劉備は劉璋軍を相手に苦戦しつつも、劉璋を降伏させて益州を平定する。すると、墓穴を掘った張松とは対照的に、法正は蜀郡太守・揚武将軍の肩書で、外では本拠地周辺を治め、内では策謀にあずかる相談役を任された。

これとは別に、諸葛亮・張飛・関羽と並び、金500斤、銀1000斤、銭5000万両、錦1000匹を劉備から下賜されているので、劉備の補佐役の諸葛亮、爪牙に当たる関羽・張飛らと肩を並べる存在と認められたのは明らかだった。

もっとも、張松がそうであったように、法正も完全無欠な人間ではなかった。要職に就くや否や、以前加えられたわずかな恩恵に必ず報い、ほんのちょっとした怨みに必ず報復する公私混同の甚だしさが目立ち始めた。

自分を非難した者数人を勝手に殺害するに及んで、諸葛亮に注進する者が現われたが、諸葛亮は、劉備が法正に篤い信頼を寄せていること、および法正自身が極めて有能なことに鑑み、法正の好き勝手をやめさせもしなければ、厳重注意を与えることもなかった。非常時ならではの人事、曹操と同じく性格より才を重んじた人事と言うべきか。

たしかに、法正の有能ぶりは対漢中政策においても発揮された。

曹操は張魯を降伏させ、漢中を制圧した勢いのまま益州に侵攻することはせず、夏侯淵らを漢中に残し、自分はいったん北方へ帰還した。

法正はその理由を、曹操に知謀や力量が足りなかったからではなく、内部に差し迫った問題が生じたためと分析。曹操が動くに動けない今こそ天が与えた好機として、漢中への大挙侵攻を劉備に進言した。

上手くいけば関中と涼州にまで版図を拡大でき、そこまでいかずとも、要害を固く守って持久の計画をとることができると説いた。のちに諸葛亮は北伐を繰り返すが、そこで展開された作戦は彼の独創ではなく、法正の計画を受け継いだものだったのかもしれない。

果たして、すべては法正の読み通りで、法正と老将黄忠の連携もよろしく、劉備の軍は曹操が頼みとする夏侯淵を討ち取ったうえ、漢中全土の平定をも成し遂げ、版図を大きく北へ広げることができた。

219年、劉備が漢中王に即位すると、法正は尚書令・護軍将軍に昇進。惜しむらくは、翌年、45歳の働き盛りに亡くなった。劉備は何日間も彼を悼んで涙を流し、翼侯の諡号を贈るが、劉備時代に諡号を贈られた家臣は後にも先にも法正ただ1人だった。

法正と諸葛亮は性格が正反対に近かったが、互いにその才を認め合っており、刑罰に関しては諸葛亮の方がずっと厳しく、法正の方が刑罰を緩くし、禁制も緩め、民の心を慰撫すべきと進言していたという。

劉備を説得する力も法正が勝っていたのか、後日、劉備自身が関羽の仇討のために起こした東征が大敗で終わった時、諸葛亮は、「法正が健在だったなら、よく殿を抑えて東征せずに済ませたであろうし、たとえ東征しても、きっと危険を避けえたであろうに」と口にしていた。

歴史書『三国志』の著者である陳寿も法正に関して、「成功と失敗をはっきり見極め、並みはずれた計画や術策の所有者だった」と書き残しており、劉備にとって諸葛亮と並ぶ補佐役であったことがうかがえる。

張松はともかく、法正の方は3国鼎立の立役者の1人に加えてよく、初期の劉備政権にとって間違いなく欠くべからざる人材でもあった。

プロフィール

島崎晋(しまざき・すすむ)

歴史作家

立教大学文学部史学科卒。東洋史学専攻。卒業後、旅行代理店勤務を経て、出版社で歴史雑誌の編集に携わり、現在は歴史作家として活動中。著書に『覇権の歴史を見れば、世界がわかる─争奪と興亡の2000年史』『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』などがある。

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