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吉田松陰と久坂玄瑞、二人が義兄弟になった意外な背景とその後

安藤優一郎(歴史家)

吉田松陰 久坂玄瑞兄弟

幕末の長州藩の志士として活躍した久坂玄瑞は、吉田松陰と出会い、彼の義弟となることで、運命を大きく変えていく。そもそも、二人は如何にして出会い、なぜ、松陰は久坂玄瑞を義弟に迎えたのか。そして、その後の二人の関係とは......。

歴史家の安藤優一郎氏が、吉田松陰と久坂玄瑞という義兄弟の出会いを解説しつつ、二人のその後をひもとく。

※本稿は、安藤優一郎著『日本史のなかの兄弟たち』(中央公論新社)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

松陰の妹を妻に迎えた玄瑞

天保11年(1840)、玄瑞は長州藩医久坂良迪(りょうてき)の三男として生まれた。本来ならば他家へ養子に出るか、部屋住みのまま一生を終えるしかなかったが、嘉永7年(1854)に長兄の玄機(げんき)、そして父が死去したことで、はからずも久坂家の家督を継ぐ。既に次兄は夭折していた。この時、玄瑞は15歳であった。

家督を継いだ後は藩医となるべく医学修行に励むも、安政3年(1856)3月に藩の許可を得て九州に向かう。ちょうど、松陰が松下村塾をはじめた頃にあたる。この時点では、同じ家中ながら松陰と面識はなかった。

長崎をはじめとする九州への遊歴を通じて、玄瑞は攘夷の志に目覚める。武力をもって日本に開国を迫ったアメリカの強引な外交手法に憤る志士との交流は、玄瑞を医師から攘夷の志士へと転生させた。

九州遊歴中、熊本で奇遇が待っていた。松陰の友人で熊本藩士の宮部鼎蔵(ていぞう)に面識を得て、松陰のもとを訪ねるよう熱心に勧められたのである。萩に戻った玄瑞は、早速松陰に書状を送った。アメリカの横暴を激しく批判し、折しも通商条約の締結を幕府に迫っていたアメリカの駐日総領事ハリスを斬るべきと主張した。

鎌倉時代、中国大陸の元が日本を2度にわたって侵攻してきたことがあった。文永の役、弘安の役で知られる蒙古襲来だ。2度目の襲来を前に、元は日本に使者を送ってきたが、時の執権北条時宗はこれを斬り、再び侵攻してきた元の大軍を撃退した。この前例に倣うことを唱える。

しかし、松陰は玄瑞の議論を一蹴した。アメリカ使節を斬るなら、ペリーの初来航時に実行すべきだった。もはや遅い。威勢が良いだけの浮ついた議論ではなく、地に足の着いた実践を求める返書をしたためる。

憤慨した玄瑞はアメリカ使節を斬るべきという主張を繰り返す書状を送ったが、アメリカとの間に和親条約を締結してしまった後、使節を斬ることは国際的な信義を失う行為であると松陰は説く。その一方で、お手並みを拝見したいとアメリカ使節を斬るようけしかけた。論破された上、実践まで求められた玄瑞は窮してしまう。

松陰が玄瑞に厳しく接したのは、大きな期待の裏返しであった。やがて、玄瑞も自分の主張が空理空論だったことを悟る。

こうして、玄瑞は松陰の門下生となった。松陰は10歳年下にあたる玄瑞の才を愛し、藩内で一番の人物とまで公言する。

翌4年12月5日には妹の文を娶らせた。以後、玄瑞は松陰の実家杉家に同居する。

 

幕府に処刑された松陰

翌5年1月19日、藩から江戸での遊学を許可された玄瑞は国元を発つ。当時、ハリスに通商条約の締結を迫られた幕府は調印を決意していたが、この問題をめぐり国論が二分化されつつあった。幕府は条約調印に勅許を得ることで国論の統一を目指す。

玄瑞は江戸遊学の機会を利用して憂国の士と広く交流し、尊王攘夷の志士として行動することを決意しただろう。それは、松陰も望むところであった。

江戸に向かう途中、玄瑞は京都に立ち寄る。ちょうど、老中首座の堀田正睦が朝廷から通商条約の勅許を得るため在京中だった。玄瑞は京都で情報収集にあたり、萩の松陰のもとに報告書を送っている。その後、江戸に向かった。

玄瑞が到着した頃、江戸では政変が起きる。勅許を得られなかった堀田が失脚し、彦根藩主の井伊直弼が大老として幕政の実権を握った。同年6月19日には、勅許を得ないまま日米通商条約の調印に踏み切る。

そのため、勅許を得ずに調印したことへの批判が噴出する。直弼は水戸前藩主徳川斉昭に永蟄居を命じるなど反対派を厳罰に処した。いわゆる安政の大獄のはじまりである。これに反発する尊王攘夷の志士たちは直弼の暗殺をはかった。

この動きに刺激を受けた松陰は、京都で安政の大獄の指揮を執る老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を立てる。門下生にも賛同を求めたが、玄瑞たちが自重するよう強く求めたため、松陰は激怒し、絶交を宣言している。

一方、長州藩はその過激な言動を危険視した。12月26日、松陰を野山獄に再び投獄する。

翌6年4月20日、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう長州藩に命じてきた。安政の大獄に伴う吟味に掛けられることになったからである。その頃には玄瑞との師弟関係は修復されていたものの、江戸に護送される松陰が再び萩に戻ることはなかった。

6月25日、松陰を護送した駕籠が江戸の長州藩上屋敷に到着する。7月9日に松陰は幕府の評定所に呼び出されたが、間部襲撃計画を自白し、そんな計画など全く知らなかった担当の奉行たちを驚愕させる。長州藩邸に戻ることは許されず、そのまま小伝馬町(こでんまちょう)の牢屋敷に護送されて吟味続行となった。

間部襲撃計画を重く見た幕府は松陰を極刑に処すことを決める。10月27日、松陰は評定所で死罪を申し渡され、小伝馬町牢屋敷の刑場で首を打たれた。30歳の若さだった。

著者紹介

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家

昭和40年(1965)、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学(文学博士)。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。おもな著書に、『明治維新 隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』など、近著に『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』がある。

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