天保10年8月20日(1839年9月27日)、高杉晋作が生まれました。長州藩の志士で奇兵隊を創設し、功山寺挙兵で起死回生の藩政府転覆を行なったことでも知られます。
晋作は天保10年、萩城下で200石の長州藩士・高杉小忠太の長男に生まれました。嘉永5年(1852)、14歳の時に藩校・明倫館に入学。また剣は柳生新陰流を学びます。吉田松陰の松下村塾に通い始めるのは安政4年(1857)、19歳の時のことでした。
松陰から直接薫陶を受けたのは、翌年、松陰が野山獄に投じられるまでの1年足らずの僅かな期間でしたが、しかしそこで晋作は、死生観も含めて、松陰から人生の方向性を決める大きなものを得たのでしょう。後々の晋作の破天荒な行動は、松陰とは人間像としては異なりますが、しかし突き詰めると、根本にあるものは同じであるように感じます。
万物元来始終有り
人生況や百年の躬少なし
名を競い利を争う営々として没す
識らず何の娯しみか此の中に存せん
晋作自作の詩です。「百年生きる人など少ないというのに、人々はひたすら名誉を競い、利を争うばかりだ。一体、そこに何の楽しみがあるというのか」。つまり自分が求めているもの、大切にするものは、名誉でも私利でもないと、晋作は詠んでいるのです。
では、晋作が求めるものとは何であったのでしょうか。それは彼が奇兵隊を創設し、命がけで功山寺挙兵を決行し、さらに4000の兵で15万の幕府軍を迎え撃った四境戦争(第二次長州征伐)を見れば明らかです。まず長州藩を変え、それを発火点としてさらに日本全体を変えて、欧米列強の侵略の危機に立ち向かえる新たな力強い国にする、というものでしょう。しかもそれを行なうにあたり、晋作は生き残ることを考えていません。功山寺挙兵では僅か80人程度で藩政府転覆に立ち上がりますが、多くの者が保身から尻込みする中で、「途中、不幸にも俗論党に遭遇して斬られるのならば、それは天命である」と語り、「自分一人でもかまわぬ。われは赤間関(下関)の鬼となる」と言って、進撃するのです。そこにはひたすら自分が信じる大業のために突き進む晋作の姿がありました。大業を成して功利を得るのが目的ではありません。大業を目指すという無償の行為こそが目的なのです。
そうした晋作の死生観は、やはり松陰の影響ではないかと思います。安政6年(1859)、江戸で処刑される直前に松陰は、晋作に手紙を送っています。それは晋作の「男子の死ぬべき時はいつか」という問いに、松陰が回答したものでした。 「生きて大業を成す見込みがあれば、いつまでも生きよ。死んで不朽の価値があると思えば、いつでも死んだらよい」。この松陰の教えが、晋作の生き方を決したように感じます。 直後に松陰は落命し、まさに男子の死ぬべき時の一例を、身をもって示しました。もしこれも教育というのであれば、これほど強烈な教えもありません。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」といわれた晋作ですが、その死生観、行動基準に松陰の影響を見る時、本当の教育とは何であるのか、そして一人の師と一人の弟子が歴史を大きく変えてしまうこともあり得る事実に、いろいろと考えさせられます。
更新:11月23日 00:05