2015年04月15日 公開
2022年11月14日 更新
こんばんは、本日は2015年4月15日(水)です。東京は、今朝方は久しぶりに春らしい気候でしたね。
さて、発売中の弊誌5月号特集「玄瑞と龍馬」では、コラムなども含めて、久坂玄瑞の人となりにも触れました。そこからこぼれてしまった話を、ここでは紹介しましょう。
玄瑞の師といえば、吉田松陰です。しかし、松陰以外にも多大な影響を受けた人物がいます。それが、兄・玄機(げんき)です。
久坂家は代々微禄の藩医でしたが、玄瑞の父・良廸(りょうてき)は機転がきく人物だったようで、藩主・毛利敬親の侍医にまでなりました。
玄瑞は良廸の三男です。長男が玄機で、次男は早世したといいます。
玄機と玄瑞は兄弟とはいえ、20歳も歳が違いました。これだけ離れていると「どのような関係だったのだろう」と思いますが、玄瑞は玄機に強く憧れていたようです。
玄機は萩藩一の蘭学者として知られる人物でした。若くして大坂に出ると、緒方洪庵の私塾・適塾で学び(なんと、塾頭にまでなっています)、それだけでなく「本場」長崎にも遊学しています。
その後、萩藩に戻ると、藩の医学所・好生館で講師を務め、当時はまだ流行っていなかった種痘の実施に青木周弼などと尽力するなど、俊英ぶりが窺えます。
それだけではありません。玄機は西洋の兵学書を何冊も翻訳し、時には海防について建白するなど、国事にも関心を抱いていました。尊王の志を抱き、松陰とも通じていた「海防僧」月性とも深く交わりました。
しかし…。玄機は安政元年(1854)にこの世を去ります。一説には、藩主へ提出する海防についての建白書を徹夜で認めている最中、筆を持ちながら息を引き取ったと伝わります。
当時、玄瑞は15歳でした。玄瑞は前年に母、玄機が逝去した直後に父を亡くし、若くして天涯孤独になりました。
それでも、玄瑞は世を恨むことなく、したたかに生きていきます。武田勘治著『久坂玄瑞』には、次のように記されています。
「16歳になった頃は、早くも秀才久坂玄瑞の名が萩城下に知れ渡っていた。(中略)幼少で不幸に遭い、人生苦の中に成長した人物は、ともすれば心がヒガミ、いぢけて、陰惨な性格になり易いものであるが、
久坂は若竹のスクスクと伸びたように純情快活で、人とよく親和し、体の如く精神も逞しく、然も温良、誠に親切な青年であった」
その後の玄瑞の足取りからは、兄の強い影響をみてとれます。
玄瑞は家業を継ぐとともに、月性などに師事して尊王の志士としての道を歩みます。その後、出会ったのが吉田松陰です。
ただし、玄瑞は松下村塾に入った後、長州でコレラが流行ると、再び医者の道に専念しようと考えたのは、本誌で紹介した通りです。このあたりも、兄の背中を追い続けていたのかもしれません。
玄瑞のような「傑物」は、個人の資質もさることながら、多くの人から学び、影響を受けて生まれるのでしょう。(水)
写真:萩市吉田松陰誕生地の久坂玄機墓(左)と久坂良廸墓(右)。玄機の墓が中央でなく、申し訳ございません…。
更新:11月21日 00:05