
↑劉邦の挙兵(河南省永城市場の漢高祖斬白蛇記念碑付設の展示室より)
大ヒット漫画『キングダム』を読み、中国史に興味を抱いたという方も多いだろう。中国古代史を知るうえで欠かせない歴史書と言えば、『史記』だ。その中には、始皇帝の暗殺に失敗した張良が、のちに劉邦と出会い、臣下として仕えていた様子が記されている。
本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』よりご紹介する。
※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
項梁(こうりょう)が楚の懐(かい)王を擁立すると、劉邦もこれに合流した。このほか、魏、趙、斉などがそれぞれ自立した。
項羽は雍丘(ようきゅう)を攻めて、李由(りゆう/李斯の子)を斬り殺した。項梁はこの勝利に驕る気配が強く、宋義(そうぎ/もと楚の令尹(れいいん))に諫められても耳を貸そうとしなかった。それからまもなく、項梁は定陶(ていとう)で章邯(しょうかん)に敗れ、戦死した。これを知った懐王は秦軍を恐れて、盱眙(くい)から彭城(ほうじょう)へ移った。懐王は軍を再編成しようと、宋義を上将軍、項羽を次将、范増(はんぞう)を末将として、趙へ救援に行かせた。
安陽(あんよう)まで行きながら、宋義は46日間も軍をとどめ、前進しようとしなかった。項羽は、「趙軍は秦軍に包囲されている。早く黄河を渡り、趙軍と内外呼応して戦えば、必ず勝利できる」と主張したが、宋義は、「わが方は秦軍の疲れに乗じるのが得策だ。鎧をつけ武器をとって戦うことでは、わしはそなたに及ばないが、座って策略をめぐらすことでは、そなたはわしに及ばない」と言って、項羽の意見を却下した。
やがて項羽は宋義を殺して兵権を奪った。懐王はこれを追認して、項羽を上将軍とした。
鉅鹿(きょろく)から救援要請を受けると、項羽は軍を率いて黄河を渡った。渡り終えると、船をみな沈めるとともに、鍋や釜を壊して、3日分の食糧だけを携帯させ、決死の戦いを挑む覚悟を示した。将兵がこれに感じて奮戦したことから、項羽の軍は章邯の軍と九度戦い、ことごとく勝利を収めることができた。項羽の軍の兵士が一人で十人の敵に打ち勝つのを見て、諸侯の将軍はみな項羽を恐れて、従うようになった。
これよりさき、懐王は、「まっさきに函谷関を破り、関中を平定した者を関中の王にしよう」と約束していた。章邯が連戦連勝を収めていたときだったので、諸侯はみな尻ごみをした。そうしたなか、項羽と劉邦だけが西に向かうことを願った。項羽が叔父の仇である章邯と正面からぶつかる道を選んだのに対し、劉邦は比較的敵の少ない道を通った。
劉邦は西進をつづけた。宛(えん)の町は守りが堅いので、見捨てて先へ進もうとしたが、張良が諫めて言った。
「沛公は急いで函谷関(かんこくかん)に向かおうとされていますが、秦の兵はなお多く、険要の地によって防いでおります。いま宛を下さなければ、背後から襲われましょう。前にも敵がいるのですから、これは危険なやり方です」
劉邦はこの進言に従い、宛を攻めることにした。宛の守(しゅ)は弱気になって自害しようとしたが、側近の陳恢(ちんかい)がそれを止めて言った。自分が劉邦に会って話をつけてくると。陳恢はつぎのように述べたてた。
「宛は大きな郡の都で、城市が数十もあり、民も財貨も多く、役人も人民も自分から降伏すれば、秦の法により、あとで必ず殺されるものと思っています。だから、みな必死になって戦うでしょう。そうなれば、あなたがたもいたずらに時間を費やし、多くの死傷者を出すことになります。また宛をやりすごして先へ進めば、後ろから追撃されるでしょう。
あなた様のために考えますに、宛の守の降伏を許すかわりに、封じて宛の城を守らせる。そして靡下(きか)の兵卒はとりあげ、いっしょに西へ連れて行くにこしたことはありません。そうすれば、これから先の諸城も、噂を聞けば、争って門を開き、あなたをお待ちするはずです。通行を妨げることはありません」
劉邦はこの策に従い、宛の守を殷(いん)侯にするとともに、陳恢を千戸に封じた。
ところで、上に名の出た張良とは、博浪沙(はくろうさ)で始皇帝暗殺を企てた張良と同一人物である。お尋ね者となったことから、張良は姓名をかえ、下邳(かひ)に隠れ住んだ。
ある日、下邳の橋の上を散歩していると、一人の粗末ななりをした老人と出会った。老人はわざと自分の履き物を橋の下に落とすと、張良のほうを見て言った。
「若造、下におりて履物をとってこい」
張良は内心の怒りを抑えて、履物をとってきた。すると老人は、今度は「はかせろ」と言う。張良は膝をついてはかせてやった。すると老人は笑いながら去っていった。張良はしばらくその後姿を見送っていたが、老人は一里ばかり行くと引き返してきて、張良に言った。
「若造、おまえには教える価値がある。5日後の夜明けに、ここで会おう」
張良は不思議に思いながらも承知した。
5日後の夜明け、張良が橋に行ってみると、老人は先に来ていて、怒っていた。
「老人と約束しながら、遅れるとは何事だ、帰れ。5日後、出直してこい」
5日後の鶏が鳴く頃、張良が橋に行ってみると、老人はまた先に来ていて、同じ言葉を繰り返した。5日後、張良は夜半に出かけていって、夜の明けるのを待った。しばらくすると老人がやってきた。老人は喜んで、「こうあるべきなのだ」と言い、さらに一篇の書物を取り出して、こう言った。
「これを読めば王者の師となれるだろう。あと10年すれば世に出られる。13年すれば、わしと再会するだろう。済北(せいほく)の穀城山(こくじょうさん)の麓にある黄色い石、それがわしじゃ」
老人はそれだけ言うと、どこへともなく去っていった。夜が明けてから、その書物を見てみると、それは太公望(たいこうぼう)が著わした兵法書だった。張良はそれを暗誦できるほどにまで熟読した。
それから世に出るまでのあいだに、張良は人殺しをして追われていた項伯をかくまったことがある。
陳勝・呉広の乱がおこると、張良もまた若者百余人を集めて兵をあげ、やがて劉邦のもとに身を投じた。
『いっきに読める史記』(PHP文庫)
更新:07月25日 00:05