(国立公文書館蔵)
大ヒット漫画『キングダム』を読み、中国史に興味を抱いたという方も多いだろう。中国古代史を知るうえで欠かせない歴史書と言えば、『史記』だ。その中には、中国戦国時代の名君・孟嘗君の逸話についても記されている。始皇帝の曽祖父である昭王に命を狙われた孟嘗君は、いかにして迫りくる追手の目を掻い潜ったのか?
本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』よりご紹介する。
※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
斉の宣王には田嬰(でんえい)という弟がいて、威王の代から要職につき、国政を補佐していた。
田嬰には妻妾(さいしょう)がたくさんおり、男子だけで四十人あまりいた。そのなかで身分の低い妾が五月五日に男子を産み、その子は文と名づけられた。田嬰は、その子は不吉だとして殺すよう命じたが、女はひそかに育て、ある程度大きくなってから、父親に対面させた。
立腹して女を詰問する田嬰に対し、田文は言った。
「父上が5月生まれの子を生かすなとおっしゃるのはなぜでしょう」
田嬰が、「5月生まれの子は、背丈が門より高くなって、父母に害を与えるといわれているからだ」と答えると、田文はさらに言った。
「人の運命は天から授かるものでしょうか、それとも門の戸から受けるものでしょうか」
田嬰が沈黙すると、田文はたたみかけるように言った。
「運命が天から授かるものであるなら、父上は何も心配に及びますまい。門の戸から受けるのだと決まっているのだとしたら、門をことさら高くつくればよいことです」
こう言われては田嬰も返す言葉はなく、女の行為を追認するしかなかった。
しばらくして、田文は父に、「子供の子は何と申しますか」という問いからはじまる、理にかなった進言をした。
「父上が斉の宰相になられてから、もう王様は三代目になります。そのあいだに斉の領土が広くなったわけでもないのに、父上の財産は万金を重ねるありさまで、おそばには賢者が一人も見えません。父上はこれ以上財産を積み蓄えて、呼び名もわからない子孫に残すおつもりですか」
これを聞いてはじめて、田嬰は田文に一目置くようになり、家の取り締まりを命じるとともに、食客(しょっかく)の接待をさせることとした。食客の数は日ごとに増え、田嬰と田文の名声は諸侯に知れわたるようになった。
周囲のすすめもあって、田嬰は田文を後継ぎにすることを決めた。田嬰が没すると、田文は薛(せつ)の領地を引き継いだ。これが孟嘗君(もうしょうくん)である。
孟嘗君は薛(せつ)の領地に住み、財産を投げだして一芸に秀でた者たちを受け入れた。食客は数千人にものぼったが、孟嘗君は身分を問わず、誰でも同じようにもてなした。
ある夜の宴会で、食客のひとりの席は灯火が暗くてよく見えなかった。その食客は他の食客と食事が違うと言って怒りだし、席を立とうとした。孟嘗君は立ち上がり、自分の卓を持って比べてみせた。その食客は自分の勘違いを恥じて自害した。
このようなこともあって、孟嘗君のもとにさまざまな人材が集まることとなったのである。孟嘗君はえり好みをせず、誰でも手厚くもてなしたので、誰もが自分だけ特別扱いされている気になっていた。
秦の昭王は孟嘗君の評判を聞き、自分のもとで使いたいと考え、自分の弟を人質として斉へ送ってきた。孟嘗君は蘇代(そだい)の進言に従い、一度は行くのをやめにしたが、斉の湣(びん)王の25年、ついに拒みがたくなり、秦に赴いた。
昭王は孟嘗君を宰相にするつもりでいたが、ある者がこう諫言した。
「孟嘗君はたしかに賢者でありますが、同時に斉の公子でもあります。もし秦の宰相になっても、斉のためを第一に考え、秦の利益はあとまわしにするでしょう。秦にとっては危険な存在ですぞ」
昭王はそれをもっともと考え、孟嘗君を軟禁状態に置き、いずれは殺すつもりでいた。
孟嘗君は昭王が寵愛する夫人のもとへ人をやり、とりなしを願った。すると夫人は言った。
「あなたがお持ちの狐の白い毛皮の外套をくれれば考えてもようございます」
その外套は天下に二つとない逸品で、孟嘗君はそれを持参してきたが、すでに昭王に献上してしまったあとだった。孟嘗君が食客たちと頭を並べながら困り果てていると、末席にいた盗みを得意とする者が名乗りをあげた。
「わたしなら、その外套を盗んでこられます」
果たして、その男は犬のまねをして宮中の倉庫にしのびこみ、まんまと件の外套を盗み出してきた。孟嘗君がこれを夫人に贈ったところ、夫人は約束どおり昭王にとりなしてくれた。おかげで孟嘗君は自由の身となった。
解放されるやいなや、孟嘗君は急いで秦の都をあとにした。夜半になって、函谷関(かんこくかん)に着いた。そこは秦の東の端である。関所の門は鶏が鳴くと同時に開かれ、日没とともに閉ざされる決まりとなっていた。
ところで、少したって、昭王は孟嘗君を解放したことを後悔しだした。使いをやって調べさせたところ、すでに出立したことがわかった。そこで昭王は早馬を出してあとを追わせた。
孟嘗君もそれを予想しないわけではなかったが、いかんせん関所が開かないことには先へ進めない。孟嘗君が焦燥の念に駆られていたとき、食客の末席にいた、鶏の鳴き真似の上手な者が名乗り出て、鳴き真似をやってみせた。するとたちまち、近くにいた鶏がいっせいに鳴き出した。こうして孟嘗君一行は、追っ手がくるより一足早く、秦の領外へ逃れることができたのだった。
そもそも、孟嘗君が盗みの得意な者と鶏の鳴き真似のうまい者を食客に抱えたとき、他の食客たちは不平を言った。あんな者といっしょにされるのは恥だと思ったからである。しかし、右の出来事があってからは、誰もが孟嘗君の眼力に感服したのだった。
帰国の途中、一行は趙の国に立ち寄った。趙の平原君は一行を歓待したが、趙の人のなかには不謹慎にも、「薛の殿様はりっぱなお姿かと思いきや、よく見たら、何のことはない、ちっぽけな男じゃないか」と嘲笑う者もいた。これを聞いた孟嘗君は腹を立てた。
食客のなかで腕に覚えのある者たちは孟嘗君の意を察して、手あたりしだいに数百人を斬り殺し、一つの県の住民を皆殺しにしてしまった。
『いっきに読める史記』(PHP文庫)
更新:07月02日 00:05