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なぜ蒙恬は投獄された? 始皇帝の死後、宦官の趙高がたくらんだ「とんでもない陰謀」

2025年06月26日 公開

島崎晋(歴史作家)

兵馬俑
兵馬俑。始皇帝陵の陪葬坑

大ヒット漫画『キングダム』を読み、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための貴重な歴史書が『史記』だ。この『史記』をひもとくと、始皇帝の死後には"とんでもない陰謀"が繰り広げられていたことがわかる。

本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』より、始皇帝の死後に一体何が起きたのか、その真相をご紹介する。

※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

始皇帝、死す

36年、隕石が東郡に落ちた。黔首(けんしゅ)[人民]のなかに、その石に、「始皇帝が死んで地が分かれる」と刻んだ者がいた。始皇帝は御史[天子の書記官]をやって調べさせたが、誰も白状する者がいない。そこで近在に住んでいる者を皆殺しにし、石は焼いて溶かしてしまった。

同年秋、関東から都へ向かう使者が、夜、華陰(かいん)の平舒(へいじょ)道にさしかかったところ、璧(玉)を持った男に呼び止められた。男は、「わしに代わって璧を滈池(こうち)の水神に送ってほしい」と言い、さらに、「来年、祖龍が死ぬだろう」と言い足した。使者が理由を尋ねようとしたときには、璧だけを残して、男はもう消えていた。

使者が璧を献上して事の次第を報告すると、始皇帝はしばらく黙然としていたが、ややあって、「山鬼はその年のことがわかるだけ」と口にした。使者が退席すると、始皇帝は、「祖龍とは先祖のことであろう」とつぶやいた。御府(ぎょふ)[天子の宝物庫の管理官]に璧を調べさせたところ、8年前の巡遊中、長江を渡るときに沈めたものであるとわかった。

37年10月、始皇帝はまた巡遊にでた。左丞相(さじょうしょう)の李斯(りし)がお供をした。始皇帝から特にかわいがられていた末子の胡亥(こがい)もお供を願って許された。

11月、始皇帝は九疑山(きゅうぎさん)で虞舜(ぐしゅん)の祀りをおこなったのち、長江を渡り、会稽山(かいけいざん)に行った。そこに秦の徳を称える碑を建てたのち、北上して琅邪(ろうや)に行った。

ときに方士(ほうし)の徐市(じょふつ)は、海上に神薬を求めて数年になるが、経費がかさむばかりで、成果をあげられないでいた。それで罰せられるのを恐れて、適当なことを言ってごまかした。

「蓬萊に行けば神薬は得られるはずなのですが、いつも大鮫(おおざめ)に邪魔されて、島へ行くことができません。上手な射手をつけていただければ、なんとかなると思うのですが」

始皇帝は、自分が海神と戦う夢をみたばかりであったことから、この話を真に受けた。そこで徐市の言うとおりに、射手を手配してやった。

その後、始皇帝は平原津(へいげんしん)というところで病気になった。症状は重く、もはや助かる見込みがないと悟るや、始皇帝は長子の扶蘇(ふそ)あての璽書(じしょ)をつくった。それには「棺を咸陽に迎えて葬式を主宰せよ」と記されていた。詔書(しょうしょ)は封をされ、宦官の趙高(ちょうこう)に渡された。

7月丙寅(へいいん)の日、始皇帝は沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)で死去した。

趙高は始皇帝から信任され、玉璽(ぎょくじ)の管理を任されていた。しかし、彼は野心の強い人物だった。扶蘇あての璽書がまだ手元にあるのをいいことに、胡亥・李斯と語らい、とんでもない陰謀をめぐらした。

始皇帝の死を秘密にしたまま詔書を偽造し、扶蘇を自害させ、胡亥に後を継がせるという策である。李斯ははじめ反対したが、趙高から、扶蘇が後を継げば蒙恬(もうてん)が重用され、李斯は下風に立たされる、それでもよいのかと言われると心が揺らぎ、結局、趙高の共犯者になることになった。

陰謀は計画どおりにすすんだ。扶蘇の後見役で、『キングダム』でも準主役扱いの蒙恬も投獄のうえ、あっけない最期を遂げた。趙高らは咸陽に帰りついてはじめて喪を発表した。胡亥が後を継いで、二世皇帝となった。

9月、始皇帝を驪山(りざん)に葬った。

 

阿房宮の造営

始皇帝は秦王に即位した当初から陵墓の造営をはじめていた。天下統一後は、徒罪の者70余万人を動員して、工事を加速させた。地下三層の水脈まで掘り下げ、銅をもって下をふさぎ、そこに外棺を入れた。墓の中の宮殿には百官(ひゃっかん)の座席をつくり、珍奇な物を宮中から運んで満たし、工匠に機弩矢をつくらせ、盗掘して近づく者があれば、ひとりでに発射する仕掛けになっていた。

また水銀で百川・江河・大海をつくり、機械で水銀の水を注ぎ送った。上は天文をそなえ、下は地理をそなえ、人魚の油をもって灯とし、長く消えないようにした。二世皇帝は、「先帝の後宮で、子供のない者を宮殿から出すのはよくない」と言って、全員殉死させた。

棺を埋めると、「工匠は内部の秘密を知りすぎています」と意見するものがあったので、封印をする際、全員を生き埋めにした。陵墓の上には草木を植えて、山のように見せかけた。

二世皇帝の元年、皇帝は21歳だった。趙高を郎中令(ろうちゅうれい)[宮中のいっさいを管理する官]として政務をまかせた。

二世皇帝はひそかに趙高に相談をした。

「大臣はわしに心服せず、官吏はなお力をもち、諸公子の動向も心配だ。何か対策はないものか」

すると趙高は、法の適用を厳しくするよう進言した。二世皇帝はなるほどと思い、大臣や諸公子、蒙毅(もうき/蒙恬の弟)をはじめ、少しでも不穏な素振りをみせた者をつぎつぎと処刑していった。

4月、二世皇帝は阿房宮(あぼうきゅう)の工事を本格化させた。これにあたらせるため、全国から労働者が徴発された。また防衛のために5万人の精鋭部隊が組織され、彼らや彼らが使う馬のための食糧を、郡県に命じて徴発させた。それを運ぶ際の食糧も自弁とした。

さらに咸陽から300里以内の農民は、自分のつくった穀物を食べることを禁じられるなど、法の適用は厳しくなるばかりだった。

7月、陳勝・呉広の乱がおきた。

同年、李斯が失脚して投獄された。

 

いっきに読める史記『いっきに読める史記』(PHP文庫)

 

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