歴史街道 » 本誌関連記事 » 伊賀忍者の末裔が空き家の管理? 江戸時代のちょっと悲しい仕事事情

伊賀忍者の末裔が空き家の管理? 江戸時代のちょっと悲しい仕事事情

2026年06月09日 公開

山本渉(歴史学研究者)

下級武士はつらいよ

江戸時代、幕臣の人数が多すぎたため、職に就けない者が続出しました。 かろうじて与えられた職でも、勤務日は月に何日かというありさま。 食べることもままならないのに暇を持て余す幕臣たちに対し、 幕府が苦肉の策で考えた役職やその実態、そしてそれを勤めた 武士たちの本音……。思わず苦笑したり、悲哀を感じるような、 下級武士の仕事事情を歴史学研究者の山本渉氏に解説して頂く。

※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

とにかく就職難だった

江戸時代の幕臣が、現代のサラリーマンを見たらなんと言うだろう。答えは容易に想像がつく。
「みんな働きすぎじゃない?」

大きく分けると、幕臣は将軍に御目見できる家格を持つ旗本と、それ以下の御家人の2種類からなる。俗に言われる「旗本8万騎」という数字は決して実数ではないが、18世紀ごろの段階で、旗本の数は5000、御家人の数は17000を超えていた。

紀伊や尾張などの御三家の藩主が将軍の継嗣として江戸城に入る場合、国許から連れてこられた家臣たちが幕臣に編入されることがあった。館林藩主である徳川徳松が将軍綱吉の継嗣として江戸城に入城した際、2500名の家臣を率いていた。

その後、徳松は数え5歳で夭折してしまうが、連れてこられた家臣たちはそのまま幕臣となっている。そんなこともあり、幕臣の数は増える一方だった。

「徳川幕府」という組織を運営していくうえで、この職員の数は明らかに多すぎた。江戸時代の幕臣たちは、基本的に暇を持て余していたのである。

それでも働き口があるだけマシだった。幕府も仕事を生み出そうと工夫はしたものの、どうしても仕事にありつけない旗本・御家人たちは、「寄合(よりあい)」「小普請組(こぶしんぐみ)」という組織に編入された。

「小普請」は元来、小規模の修繕工事を指す。無役の者はこのために、人足を供出しなければならなかったのだ。人足の供出はのちに金納に代えられるが、役料(役職手当)のない御家人にとっては、相当に痛い出費であった。

そもそも、徹底された身分制のせいで、それぞれの幕臣が就ける仕事の幅は、かなり限られていた。たとえば、将軍に近侍して歯磨きや顔剃りなどの面倒を見る「小納戸(こなんど)」を、御家人生まれの者が勤めることは少なかった。

近世は、様々な身分の人々が天から与えられた「分」を守ることで「理想的」な社会を保っていたのだ。下位の武士が将軍に近侍するなんて、「分をわきまえない行為」だった。

下級武士の家に生まれた人間は、下級武士としての仕事をつつがなく全うし、子孫にバトンを渡すことを使命としていた。現代のように「のし上がってやる」と出世に燃える人間は、基本的には少なかったのである。

幕府はできるだけ多くの幕臣を職に就けるため、水で薄く延ばすかのように当番制を敷き、多くの雇用を作り出した。独断専行を避けるためでもあったが、結果的に1人の仕事量は極めて軽量化していた。

「御徒(おかち)」は将軍外出の際などに先駆けして警戒を行なう仕事である。代々この職に就く山本政恒という武士は、幕末から明治にかけて、自らの生活を記していた。その日記に曰く、山本は月に6度しか勤務しなかったという。いくぶん極端な例かもしれないが、基本的には「3日勤め」と言って、2日勤務しては、1日休む当直・非番制が組まれていた。筆者は京都における幕府の役所で働く人々について研究しているが、とにかく「非番」(なぜか「悲番」とも書く)が多い。とにかく多い。

では、たっぷりあった休みの日に何をしていたのかというと、多くは内職である。傘張りや提灯作り、植木の栽培などがメジャーなところだろう。大久保に住んでいた飯島武右衛門という同心は、躑躅(つつじ)の栽培に熱中しすぎたせいで、「江戸第一の壮観」とも呼ばれる景色を生み出してしまった。上役はきっと苦笑いをしていたに違いない。

 

激しい「新人いびり」に耐え抜いて

とはいえ、決して下級武士のお勤めが楽だったと言いたいわけではない。そこには江戸時代ならではの過酷さがあった。下級武士たちの様々な仕事を紹介しながら、サラリーマンの悲哀にも似た気苦労を覗いてみよう。

まずは先ほど紹介した御徒の山本政恒だ。彼の職場が抱える問題は、激しい「新人いびり」であった。「若(も)し古参の言に随(した)がはざれば、一同の悪(にく)しみを受け勤め難し」という環境のなかで、勤めについて半年のあいだは、非番のたびに上役の屋敷に挨拶に出向かなければならなかった。これでは、毎日働いているのと変わらない。きっと手ぶらというわけにもいかなかっただろう。

出勤の日にはいち早く家を出て、同僚が揃うまで往来で待ちぼうけをしていた。挙句、初めての当直の日には、先輩たちが集まって新入りの陰茎を検(あらた)め、からかいながら、その詳細を書類に記録したという。これは暇に飽かした先輩たちの「慰み」であった。翌朝には、その「御礼」として、先輩たちの屋敷を回らなければならなかった。

ことの次第を耳にしている下女たちが自分を見てクスクスと笑うので、山本は「甚(はなはだ)赤面なり」と記している。とんでもないハラスメントだ。

持て余した時間に、逆に苦しめられる者もいた。「伊賀者」と呼ばれる伊賀忍者の末裔たちは、家康の伊賀越えを助けた功績によって、幕府に召し抱えられた由緒を持つ。神君を助けた功績を誇る、気高き忍者の末裔たちであった。

ところが、幕府での彼らの扱いは極めて軽かった。基本的には江戸城内の警固が仕事であったが、なかには「明屋敷番(あきやしきばん)」という閑職に当てられた者もいる。幕臣の拝領屋敷は、上地(没収)や替地によって、しばしば空き家となった。この空き家の管理・見廻りをしたのが、「明屋敷番」なのである。ある伊賀者は嘆く。

「閑暇(かんか)之御場所ニテは相勤空敷(あいつとめむなしく)打過罷在候(ちすごしまかりありそうろう)ハ、本意ニも無之(これなく)、先祖之遺言ニも相背(そむき)候」
(暇な場所では、お勤めも空しく過ぎていくので、望むところではない。先祖の遺言にも背いてしまう) 
「伊賀者惣人数御取調」(『掛川市史資料集』第四号より)           

日がな一日、広大な旗本屋敷の庭を眺め、ため息をつく伊賀者の姿が想像できる。

「貝役(かいやく)」は将軍の日光詣でや狩猟の際に供奉し、ほら貝を吹く仕事である。戦乱の世には戦略的にも重要な役割を担ったが、いかんせん太平の世では閑職とならざるを得ない。

似た役としては、貴人の接待をする僧形の武士、表坊主が勤めた「太鼓役(たいこやく)」という仕事がある。幕臣たちの出勤のチャイムの代わりとなる大櫓の太鼓を、「表六尺」という下級御家人に「打たせる」役職である。こちらも極めて閑職であるので、懲罰人事的な意味合いも込められていた。

意外かもしれないが、江戸城内には坊主頭の武士が多くいた。剃髪は世俗からの離脱を意味したので、貴人に近侍する際には、どこにも属さぬ中立的な存在として重宝されたのだ。ただし彼らはあくまで武士なので、万が一役から離れると、またぞろ髪を伸ばして髷を蓄えることになる。

 

あるだけマシな仕事あれこれ

「明屋敷番」も「太鼓役」もなかなかマイナーではあるが、幕府にはまだまだ知られざる仕事がある。なにせ、御家人の仕事だけでも250に及んでいたのだ。旗本・御家人の雇用を生むには、仕事はいくらあっても足りない。時代劇では日の目をみない仕事をいくつか紹介しよう。

珍しい仕事としては、真っ先に「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」が挙げられる。なんと外出中に将軍の便器(尿筒)を懐中する専門職だ。大仰な武家装束を身にまとった将軍にとっては必要不可欠な仕事であるが、常の勤めはなく、他職への昇進も見込めなかった。土田孫左衛門家という家が世襲したことで知られている。登城御目見の際も町人と同席で、脇差一本差しという極めて軽い身分であった。

「掃除之者(そうじのもの)」と呼ばれる人々は、文字通り城内の清掃を主たる任務とし、そのほか使い走りなどに従事した。10俵1人扶持ほどの薄給であったが、ほかに手当が与えられることもあった。

武士身分のシンボルである「帯刀(たいとう)」という特権は、大小二本の刀を帯びることを指す。軽輩である「掃除之者」は木刀一本を手挟んで職についた。とはいえ、使い走りをするには、これくらい軽装の方が楽だっただろう。

「湯呑所之者(ゆのみしょのもの)」は下勘定所にある休憩スペースで、給仕や器の管理に従事した下級御家人である。役高は20俵〜給金13両ほどだ。

先ほどから登場する「俵」という単位はおおよそ4斗と計算できるので、20俵は80斗。石高に直すと8石ほどだろう。俵取りの下限は「評定所使之者(ひょうじょうしょつかいのもの)」の8俵1人扶持であるが、いずれにしても物価の高い江戸では生活に苦労するほどの薄給である。因みに、「扶持」は1人1日玄米5合の割合で支給された。

先ほど紹介した「表坊主」の仲間には、「中奥」で働く「小納戸坊主」がいる。彼らの主な仕事は鋏(はさみ)や煙草盆など、将軍の日用品を管理することだった。こちらは逆に気忙しい仕事で、大奥で飼われている魚や鳥の餌となるミミズの手配にまで奔走する姿が知られている。

どうやら、将軍一族の高貴な楽しみのために、こき使われる仕事だったようだ。常に貴人と接するので、気も休まらない。

同じように、幕府には動物に関わる仕事がたくさんあった。「鳥見役(とりみやく)」は将軍の鷹狩のために獲物となる鳥のいそうな場所を調べて廻る役。

「牧士(もくし)」は幕府直営牧場の運営を任された者だ。朝夕の見廻りから、牧場内の馬を捕らえる年に一度の「野馬(のま)捕り」の指揮まで行なう、なかなかハードな仕事であった。

 

「やらかした者」がたどる道

いくら軽量化されているとはいえ、いつの時代でも、仕事にミスはつきものだ。幕府の仕事でやらかした武士たちは、どうなってしまうのだろう。

懲罰人事の典型とされるのが、直轄領である甲府城に勤めた「甲府勤番衆」である。江戸から遠く離れた山深い地での勤務は、幕臣から酷く嫌われ、「山流し」などと蔑まれた。

御家人の子に生まれ、武士の文化に詳しい作家の岡本綺堂は、『箕輪心中(みのわしんじゅう)』のなかで、懲罰として「山流し」を命じられそうになった旗本が、叔父から「甲府勤番を命じられる前に、潔く腹を切るべきだ」と迫られる様子を描いている。

「代々の功績」が重んじられた時代、一代の「やらかし」は一族郎党のみならず、永久的に末裔にまで及ぶ負債となったのだ。

 御番日(ごばんび)を居間に書付張置(かきつけはりおけ)よ
  もしわすれては立たぬ身の上

という狂歌が『番衆狂歌』に収録されている。勤番の武士たちは、まれにしかない勤務日を忘れないように、紙を貼り出しておくのが習慣であった。

下級武士の悲哀にばかり注目してきたが、勤めがつらい者たちは、歯を食いしばって踏みとどまるしかなかったのだろうか。

残念ながら、多くの場合はそうだった。陰湿な新人いびりを受けた山本ですら、「其他(そのほか)実に腹の立事多しと雖(いえど)も、習慣なれば致し方無之」と、あきらめ気味に現実を受け入れているくらいだ。

とはいえ、能力によって「分」を乗り越え、出世していった人間もいないではない。特に幕末は強固であった身分制が、少しずつ崩れはじめた時代であった。庶民ですら「身上がり願望」という上昇欲求にとりつかれ、どうにか武士化しようと画策する者が多かった。

幕末に勘定奉行などの要職を歴任した川路聖謨(としあきら)は、もともと豊後の代官所の属吏の息子にすぎなかった。それが出世に燃える父に育てられ、勘定所の登用試験に合格したことを皮切りにめきめきと頭角を現す。支配勘定、評定所留役(旗本)、勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行と目覚ましい出世を成し遂げ、勘定吟味役就任時には「昇進凡(おおよ)そ十段計りも飛び抜け」と評された。 

「未明より出て、暮に帰るごとく奔走」という日々の精進の賜物ではあったが、近代の萌芽を感じさせてくれる、秋空のごとき清々しい大出世劇であった。

堂々たる聖謨の働きっぷりは、出世なんて想像もしていなかった下級武士たちを、大いに励ましたに違いない。

プロフィール

山本渉(やまもと・わたる)

歴史学研究者

平成6年(1994)、京都市生まれ。上智大学文学部史学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。上智大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。専門は日本近世史、村落史、身分制論。「文春オンライン」「プレジデントオンライン」ほかに寄稿。

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

秀長がいれば家康の台頭はなかった?『豊臣兄弟!』時代考証が明かす、知られざる功績

歴史街道編集部

渋沢栄一の孫が「紙幣を無価値」に? 税率90%、預金封鎖...戦後日本を救った壮絶な決断

幸田真音(作家)

鎌倉幕府を滅ぼした「モンゴル帝国の貨幣経済」 宋銭の流入による社会の変動

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)

徳川家は戦国大名の「富」を恐れた? 鎖国を200年貫いた江戸幕府の狙い

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)

なぜ関東には有力な戦国大名が育たなかった? 原因となった「室町幕府の分断統治」

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)