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小野妹子は国書を紛失、高向玄理は帰国できず...海を渡り中国に学んだ日本人(前編)

2025年04月28日 公開
2025年04月28日 更新

鷹橋忍(作家)

小野妹子の墓
大阪府にある小野妹子の墓

航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。

 

小野妹子――煬帝から文書を授かるも...

中国へ渡った古代の人物というと、小野妹子が、真っ先に脳裏に浮かぶのではないだろうか。

『日本書紀』には、推古天皇15年(607)、「大礼(だいらい)」小野臣妹子が大唐(隋)に遣わされたことが記されている。「大礼」とは位階で、冠位十二階のなかの第五位にあたる。この時点で妹子の位階は、特別に高いわけではなかった。 妹子は有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」ではじまる国書を携えて、隋に渡った。

この国書を見た隋の第二代皇帝・煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と怒りをあらわにしたという(『隋書倭国伝』)。

翌推古16年(608)、妹子は隋からの返答使・裴世清(はいせいせい)を伴い、帰国した。 妹子は帰国にあたり、煬帝から文書を授かっていたが、百済国を通った際に、その文書を百済人に奪われてしまったため、届けることができないと奏上した。文書を紛失した妹子を群臣は、流刑に処すべきだとしたが、推古天皇は赦(ゆる)した。

この妹子の文書紛失に関しては諸説あるが、倭国に不都合な内容が記されていたため、妹子が握りつぶしたともいわれる。

同年9月、裴世清を送るため、妹子は再び、隋に派遣された。このとき、後述する南淵請安(みなぶちのしょうあん)、旻(みん)、高向玄理(たかむこのげんり)らも、随行している。彼らは、隋の滅亡と唐の興隆を目の当たりにしながら中国で学び続けることになる。一方の妹子は、翌推古17年(609)9月に帰国した。

帰国後の妹子に関しては、よくわかっていない。だが、大礼から、冠位十二階の最高位である「大徳(だいとく)」に昇進したようなので、しばらくは朝廷で任につき、高い評価を得ていたのではないだろうか。

妹子の没年は不明である。政界を引退してからは、故郷の近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)で過ごしたともいわれる。穏やかな晩年を送れたのだろうか。

 

南淵請安――大化の改新に貢献するも、その名は刻まれず

南淵請安は百済系渡来人の子孫で、その名が登場するのは『日本書紀』のみである。推古16年(608)、旻、高向玄理らとともに遣隋使・小野妹子に従い、学問僧として入隋。

隋から唐へと移り変わる中国に、32年にわたって滞在し、舒明天皇12年(640)、高向玄理とともに帰国した。中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らが蘇我蝦夷・入鹿父子を倒す「乙巳(いっし)の変」が起こる5年前のことである。

請安はその中大兄皇子、中臣鎌足と関わりがあった。

『日本書紀』によれば、皇極天皇3年(644)、中大兄皇子や中臣鎌足らは請安のもとに書物を携えて通い、周孔(しゅうこう)の教(儒教)を学んでいるのだ。二人は講義へ通う道中で、蘇我氏打倒の計画をひそかに企てたと伝わる。

中大兄皇子と鎌足によるクーデターが成功し、新政権が樹立されると、請安とともに隋・唐へ留学していた高向玄理と旻は、新政権において重要な役割を担った。

ところが、請安は中大兄皇子と鎌足の師であるにもかかわらず、登用された形跡はない。その理由は、中大兄皇子や鎌足らと決別したからとも、請安が死去したからともいわれる。

 

旻――国博士(くにのはかせ)として大化の改新に貢献

旻は、渡来人の子孫で、僧侶である。その名は僧旻、旻法師、日文などと記される。推古16年(608)、遣隋使・小野妹子に従い、南淵請安や高向玄理らとともに入隋したが、舒明4年(632)、請安や玄理に先だって帰国している。それでも、旻の中国滞在は24年にもおよび、仏教のみならず、儒教、陰陽五行など深い学識を得た。

皇極4年(645)、蘇我入鹿・蝦夷が滅び、皇極天皇の譲位により軽皇子が孝徳天皇として即位し、「大化」の元号がたてられた。そして、皇太子として実権を握った中大兄皇子と、内臣となった鎌足を中心に、国の変革がはじめられることになる。「大化の改新」である。旻と高向玄理は、政治顧問ともいうべき「国博士」に任命された。

旻は高向玄理とともに「八省・百官の制」を立案するなど、ブレーンとして活躍した。

大化6年(650)、穴戸(あなと。長門〈ながと〉)国司から白雉が献上されたときには、旻は中国の古典を引用して、白雉が祥瑞であることを説き、「白雉」に改元されている。

孝徳天皇からの信頼は厚く、『日本書紀』によれば、白雉4年(653)5月、孝徳天皇が旻の僧坊を訪れ、病に伏した旻を見舞い、親しく言葉をかけている。 旻はその翌月6月に亡くなってしまうが、それを知った孝徳天皇は弔問使(ちょうもんし)を送り、多くの贈物をしたという。

 

高向玄理――異国に骨をうずめた遣唐押使(おうし)

高向玄理も渡来人の子孫である。推古16年(608)の遣隋使に学生として随行し、旻や南淵請安とともに隋に渡った。

32年にわたって隋・唐で学び、舒明12年(640)に、新羅を経由して、南淵請安らと帰国。その後は、旻とともに国博士に任じられ、大化の改新に貢献した。

『日本書紀』によれば、大化2年(646)9月に遣新羅使として新羅に派遣され、新羅から任那(みまな)への調(みつぎ)を廃止させた。そして翌大化3年(647)に、新羅の金春秋(きんしゅんじゅう。のちの武烈王)を人質として連れて帰国している。

白雉5年(654)には第3回遣唐使に、遣唐押使として派遣された。遣唐押使とは、この第3回遣唐使ではじめて置かれた役職で、使節団の最高責任者である。大使より上位となる。

玄理らは新羅を経由して入唐し、長安に上って、三代皇帝・高宗に拝謁している。そのとき唐の役人から、日本国の地理や国初の神の名などを問われたが、全員、答えられたという。

使者としての面目を果たせた玄理だが、この後、唐の地で死去したことが、『日本書紀』にみえる。死因は記されていない。玄理はすでに老齢に達していたといわれ、異国への長旅の疲れや、遣唐押使としての重責がこたえたのかもしれない。

中国、朝鮮との外交に活躍した玄理にとって、使命半ばで命尽きたのは、さぞかし無念だったであろう。

 

【鷹橋忍(たかはし・しのぶ)】
作家。昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『牧野富太郎・植物を友として生きる』などがある。

 

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