
戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。
今回は、主君のために命をなげうった二人の人物をご紹介しましょう。
※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
裏切りが常だった戦国時代とはいえ、主君に尽くした家臣も、もちろんいた。そして、その忠節はやはり、死と隣り合わせの戦場で試されるものだ。そういった戦場での忠節の逸話は、いくつも残されている。
毛受勝照は、織田氏の家臣・柴田勝家の近侍を務めていた武将である。天正2年(1574)、長島一向一揆との戦いにおいて勝家軍の馬印が一揆勢に奪われる事態が起こった。馬印は総大将の所在を示すもので、これを敵に奪われることは非常な恥辱とされていた。
憤激した勝家は武門の恥をそそぐべく、単身敵中に乗り込み、馬印を取り戻そうとしたが、それを勝照は押し留めた。そして自ら敵陣に乗り込み、見事、馬印を取り戻して勝家を大いに喜ばせたという。
その後も勝照は勝家に仕え続けたが、天正11年(1583)、「賤ケ岳の戦い」において勝家軍は羽柴秀吉に敗れてしまう。
勝家は討死にを覚悟したが、このときも勝照は死に急ぐ勝家を押し留め、主君の具足を借りて身につけると、勝家の馬印を掲げ、「我は柴田勝家なり」と言い放ちながら包囲する秀吉の大軍に突撃。主君の身代わりとなって敵を引きつけて果敢に奮戦した末、討死にした。
こうして勝照が時間を稼いでくれたおかげで、勝家は本拠の北ノ庄城にまで逃げ延びることができたのである。
また別の、戦場での命懸けの忠節の逸話を紹介する。鳥居強右衛門は、出自も前半生もはっきりしていない、ほぼ無名の武将だ。しかし、天正3年(1575)の「長篠の戦い」における決死の行動ただひとつによって、歴史に名前を残した。
強右衛門は、三河国の国衆であった奥平氏に仕えていた。奥平氏は元々、武田氏に従属していたが、武田信玄が亡くなると、徳川家康に寝返る。これに怒った信玄の後継者である武田勝頼は、15,000の大軍で奥平信昌の長篠城を包囲。対する長篠城の守備兵は500人足らずであった。
それでも長篠城はなんとか数日持ちこたえたが、兵糧庫を焼失したこともあり、やがて落城寸前となってしまう。
絶体絶命のなか、唯一の救いの道は家康のいる岡崎城へ援軍要請の使者を出すことだけだった。だが、武田の大軍に包囲されている状況下、城を抜け出して岡崎城まで無事辿り着くのは不可能に近いと思われた。
ここで、その困難な使命に名乗りを上げたのが強右衛門である。強右衛門は夜陰に紛れて長篠城を抜け出すと、武田軍の包囲網を突破して、翌日の昼過ぎには岡崎城に辿り着くことに成功する。このときすでに、岡崎城では長篠城救援のため、織田・徳川連合軍38,000が出発の準備を整えていた。
しかし、救援が来ると知っていれば持ちこたえられるかもしれないが、知らなければ絶望のあまり、いつ降伏してもおかしくない。そこで強右衛門は援軍の報せを一刻も早く味方に伝えるため、周囲が危険だと止めるのを振り切り、単身、着いた足ですぐに長篠城へと引き返した。
ほとんど休みなく走り続けた強右衛門は、翌朝、長篠城の近くまで戻ってくる。当時の長篠城から岡崎城までの距離は片道約65キロメートル、往復にすれば約130キロメートルだ。これを、強右衛門は一日強で走り切ったのである。
太宰治の小説『走れメロス』のなかに、「私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ」という一文があるが、強右衛門の気持ちもまさにそのようなものだっただろう。
だが、長篠城を目前にして強右衛門は武田軍に見つかり、捕まってしまう。取り調べで、織田・徳川連合軍が長篠城の救援に向かっていることを知った勝頼は、敵の援軍が到着する前に城を落とす必要に迫られた。
勝頼は強右衛門に対して、助命と厚遇を餌に、援軍は来ないと噓の報せを長篠城に伝えるよう強要。強右衛門は表向きではそれを承諾して城の前まで引き立てられるが、死を覚悟していた彼は、そこで城に向かって「一両日で援軍が来るから、あとしばらくの辛抱です」と叫んだ。
勝頼は怒り、強右衛門を殺したが後の祭り。強右衛門が捕まる直前に上げた狼煙によって救援到来の情報は長篠城に曖昧ながら伝わっていたが、強右衛門の死を賭した叫びでその確証を得た城主・奥平信昌と守備兵たちの士気は上がり、以後、彼らは2日間城を守り抜いた。
そして、織田・徳川連合軍の到着により、武田軍は敗北を喫したのである。
更新:05月05日 00:05