ルンガ沖夜戦の栄光の駆逐艦の、つぎには悲惨を語らねばならぬときがきたようである。立派な造艦技術も、酸素魚雷も、猛訓練も、優れた兵術も、そして何より大切な人間の生命が、すべて海の底に沈んだ。対米戦争に勝算なしと知りながら遂に「ノウ」といえるだけの高い見識と真の勇気もなく、無謀な戦争にひきずられた日本海軍の、たどらねばならなかった悲しい道であったのか。
第一五駆逐隊の、ソロモン海のほとんどで行をともにした親潮、黒潮、陽炎の3艦は、そのソロモンの蒼い海の底に時を同じくして沈んだ。ルンガ沖夜戦から半歳もたたぬ昭和18年5月8日のことである。
ガ島撤退後も、ソロモン諸島の北西方のコロンバンガラ島、ニュージョージア島のムンダの飛行場や基地の強化はつづけられ、その輸送作戦に駆逐艦は働いていた。
アメリカ軍の海空からの攻撃は日ましに強化され、そしてこれが最後の輸送になると予想された作戦の帰途、3艦は敵潜水艦が敷設した機雷原に不運にも突入してしまったのである。
親潮の重本少尉はこの前後に奇妙なことに気づいたことをおぼえている。艦内に、つながるようにして巣くっていたたくさんの油虫が突然いなくなったことである。
将兵のうちには、それに気づいたものもあった。人の嫌がる油虫やネズミを、生命を賭けた苛酷な戦場においては、同胞の一員とも思い、親しみを感じ、愛嬌のある小動物として飼育していたものがいたからである。
机の抽出しをあけたとき、てかてかとした油虫が1匹も発見できなかったことに、少尉は取り残されたような淋しさを感じたというのである。
この日、揚陸任務も無事終了し、ショートランドに戻ろうと、駆逐隊はファガッソン水道に針路を向け、訪れてくる南海の夜明けを迎えようとしていた。そのとき、親潮は機械室後方にはげしい衝撃を受けたのである。
電信室で休んでいた重本少尉が艦橋にかけ上ったときには、もう親潮は後甲板を水面すれすれにまで沈め、濛々と黒煙を機械室あたりから吐き上げていた。航行も通信も不能。主砲も手動によるほかはない。すぐ沈む恐れはないにしても、万事休した状態となった。
これを見た陽炎艦橋は殺気だった。艦長・有本中佐はとっさに潜水艦の攻撃によるものと判断した。「爆雷戦」の号令に、水雷長・高田大尉は投下準備をすすめた。
潜水艦の所在はまったく不明であったが、遮二無二投下するのである。威嚇し、この追いつめられた危険から脱することが先決である。
陽炎は疾駆しつつ、滑走輪に3、投射機に4、投下機に2、それぞれ爆雷はつづけさまに落とされて静かな海面を噴火させ、そして危険な状勢を好転させようとした。
しかし、ほとんど時間的な経過はない。陽炎もはげしい衝撃を受け停止した。高田大尉の記憶はこの瞬間には失われていた。気がついたときは、艦橋に横転し、帽子のとんだ後頭部がずきずきと痛んだのをおぼえている。
そっとなでさすった手に真っ赤な血がついた。艦は完全に停止している。明らかに下からの爆発で吹き上げられていた。これは機雷だ、と大尉は興奮のうちに思った。
停止した親潮にも陽炎にもそれほど絶望の色はなかった。すぐに沈没の気配はなかったし、島影はすぐそこにあり、それに何よりも黒潮がなお健在で、海面を大きく旋回しながら、爆雷の威嚇射撃をつづけているのが頼りになった。元気な僚艦を見ることは、危険海域に漂流する駆逐艦の将兵にとっては、何よりも心強くはげみとなることであったが......。
その黒潮がいちばん悲惨な衝撃を受けた。親潮の重本少尉には、天に冲した火柱が消えたとき駆逐艦黒潮の細長い船体が3つに折れたように、眺められた。あっという間もなかった、黒潮は轟沈した。
親潮、陽炎の生存者が愕然と見まもるなかで、2、3分後には姿を消し、あとにはおびただしい浮遊物が浮かぶのみとなった。生き残った乗組員が泳いでいるのであろうか、水面がわずかにしぶいているの
が望見された。
大破しつつも、なお浮いている親潮と陽炎の方が、幸運であったというべきなのか。戦場にあっては、あるいは早く沈んだ方が幸運と考えた方がよかったか。艦への愛着をはなれて客観的に判断すれば親潮も陽炎も沈んでいると答えねばならなかったが。その半死の駆逐艦に、数時間後、敵機は容赦ない攻撃をなお加えてきた。
数十機がいくつもの波にわかれ、動けざる艦を見くびるかのようにゆっくり旋回し、そして訓練のつもりもあろうか、悠々たる正面攻撃を加えてくる。親潮も陽炎も最後まで奮戦をした。機銃は頑強に抵抗し、主砲も射撃方向も射撃速度もままならないまま、繰り返して火を吐いた。撃つことで挫けそうになる気を奮い立たせた。
18時17分、真珠湾攻撃作戦参加いらい戦火のなかをくぐりぬけてきた陽炎は、戦い疲れたように、火も煙も吐かずゆっくりと沈んでいった。親潮も前後して海面からひっそりと姿を消した。
近くの無人島にカッターで、あるいは泳いで渡った将兵は、疲労と乗艦沈没の悲哀でむっつりと押し黙っていた。上陸4日にして助け出されるまで、3隻の駆逐艦の生存者のロビンソン・クルーソーぶりもまた1篇の物語になる。
かれらは名も知らぬ南海の孤島で、戦争について、運命について、生と死について多く考えたという。親潮の戦死91名、黒潮83名、そして陽炎は18名という数字が残されている。
駆逐艦江風(かわかぜ)が沈んだのは、さらに3カ月後の8月6日である。
ルンガ沖夜戦時の艦長・若林中佐は昭和17年12月2日に、水雷長・溝口大尉は18年5月にそれぞれ退艦しており、ベラ湾夜戦における江風の死を淋しい想いで聞いたのは、ともに日本内地で、ソロモン海で疲れはてた身体を休めているときである。18年夏、日本は奇妙な戦勝気分のなかにまだ浮かれていたという。