2021年08月11日 公開
2022年06月28日 更新
「逐次戦闘加入」という下策によって、日本陸軍が米軍の迎撃の前に敗退を重ねたガダルカナルの戦い。「この世の地獄」というべき戦いの実相はいかなるものだったのか――。
※本稿は、歴史街道編集部編『日本陸海軍、失敗の研究』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
新潟県三島郡出雲崎町は「良寛さま」の出生地としても知られるが、近代史においては「石油産業発祥の地」である。明治24年(1891)、日本石油はこの地において、機械方式による石油掘削の手法を国内で初めて採用し、噴油に成功した。
大正8年(1919)4月30日、金泉潤子郎さんはこの町にて生を享けた(取材時・96歳)。父親は日本石油の社員であった。
金泉さんは地元の高等小学校を出た後、北海道の札幌で叔父が経営する工務店に「見習い」として入った。
昭和14年(1939)の徴兵検査を経て、翌昭和15年(1940)4月、第二師団(仙台)の工兵第二連隊に入隊。本隊が満州に駐屯していたため、「留守隊」への入営となった。
初年兵生活を無事に終えた金泉さんは「幹部候補生」に選ばれ、「初年兵の教育係」を任されるようになった。
昭和16年(1941)12月、真珠湾攻撃により日本はアメリカと開戦。金泉さんの属する工兵第二連隊は、愛知県の犬山町へと転進した。その後の行き先は告げられなかったが、夏服を支給されたため、南方の戦地に向かうことが分かったという。
工兵第二連隊が乗艦した輸送船「東福丸」が目指した先は、蘭印(オランダ領東インド)のジャワ島であった。所謂「蘭印作戦」への参加である。
昭和17年(1942)3月1日、第二師団はジャワ島のバンタム湾から敵前上陸。この時のことを、金泉さんはこう回顧する。
「初めての戦闘ですからね。正直、足が震えましたよ。周囲の戦友の中には、腰を抜かす者もいました。海岸線にきれいな稲穂が揺れていた景色を、何故だかよく覚えています」
日本軍の上陸作戦は見事に成功。オランダ軍は早々に撤退した。
上陸すると、現地の人々が親指を立てながら明るく挨拶してくれた。マンゴスチンなどの果物を差し入れてくれることもあった。約300年もの長きにわたってオランダの圧政下にあったインドネシアの人々は、日本軍の上陸を歓迎したのである。
昭和17年7月、日本の海軍設営隊がガダルカナル島に飛行場を設営。米軍とオーストラリア軍との連絡線を遮断することがその目的であった。
しかし、翌8月、米軍がガダルカナル島に上陸。日本側が整備したばかりの飛行場を占領した。この事態を受けて、日本軍は直ちに奪回を決意。こうして始まったのが「ガダルカナル島の戦い」である。
日本陸軍は次々と支隊を投入したが、圧倒的な物量を誇る米軍の迎撃の前に敗走を重ね、壊滅的な打撃を蒙った。日本側は米軍の兵力を大きく読み違えていた。
結果、日本軍は「戦力を小出しに投入する」という下策「逐次戦闘加入」の愚に陥った。現地の将兵は白兵戦による突撃を懸命に繰り返したが、多くの生命が無惨に散った。激戦地の一つは「血染めの丘」と呼称されるようになった。
金泉さんの属する第二師団は、このような戦況を打開するために投入された。師団長は丸山政男中将である。金泉さんは兵長だった。
金泉さんはラバウルを経由した後、駆逐艦「時雨(しぐれ)」に乗艦してガダルカナル島へと向かった。
記録によれば、この時に上陸に成功した陸軍将兵の数は約750名である。
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密林に35キロに及ぶ「迂回攻撃路」を切り開く >