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半藤一利「非人間的な戦争下においてわずかに発せられた人間的ないい言葉」

2021年04月29日 公開
2022年01月18日 更新

半藤一利(作家)

半藤一利

2021年1⽉に逝去した昭和史の語り部、半藤⼀利⽒。⽣前最後の連載原稿を書籍化した『戦争というもの』が刊⾏される。

その本では、太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を解説している。「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊である。

本稿は、その中から半藤氏が考える戦争下でうまれた「名言」を“後世に残す意味”についての一説を紹介する。

※本稿は、半藤一利 著『戦争というもの』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

“太平洋戦争”開戦80年の節目

数え年という言葉を聞いたことがありますか。わたくしが少年時代、いや大学生になるころまでは数え年で年齢を数えていました。生まれると一つになり、つぎのお正月を迎えると二つになる。

これが数え年というものです。たとえば、12月30日生まれの子が、2日たってお正月を迎えるとすぐに二つになってしまう。

それで当時の親は、娘が12月末に生まれると、年を越してすぐに二つになるのはふびんだと、出生届けを翌年1月にのばして、1月2日生まれ、3日生まれとしてだすことが多かったのです。

それが変わったのは昭和24年(1949)5月24日に成立した「年齢のとなえ方に関する法律」によって、これからは満年齢で「言い表すのを常とするように心がけなければならない」と決まったからなのです。

いまはだれもが満年齢しか使っていませんから、数え年といったってわからないのが当たり前なんです。 実は、そのだれもが使わない数え年でいうと、今年(2020)の12月8日は昭和の日本が、アメリカ、イギリス、オランダを敵として戦いをはじ めた太平洋戦争開戦80年の節目に当るんですね。

昭和16年(1941)12月8日がその開戦の日なのです。満で数えれば来年の12月8日になるのですが、わたくしのように、少年時代を太平洋戦争というこれ以上の悲惨はない体験をした人間にとっては、どうしても数え年で節目の年を数えたくなるのです。

 

戦争の“非人道的”な恐ろしさ

とはいえ、いまの日本では、日本がアメリカと3年8カ月にわたる大戦争をしたことを知らない人がいっぱいいる。かなりの大人のなかにも「それで どっちが勝ったの?」とわたくしに尋ねる人さえいるのです。

あいた口がふさがらないとは、まさにこのこと。情けなくなります。 戦争は真に悲惨なものでした。 わたくし自身は、空襲の猛火と黒煙に追われて川に落ち危うく溺死寸前という九死に一生の体験をしています。

昭和20年(1945)3月10日の、一夜にして10万人もの人が亡くなったいわゆる東京大空襲の被害者の生き残りの一人なのです。

いま思うと、あれは午前3時ごろではなかったか。空襲警報解除のサイレンが鳴ったと記憶していますが、そのときになって、北のほうからも南のほ うからも迫ってきた炎の柱から噴きだされた火の塊が、喊声をあげるよう にして川べりの小さな広場に集まっていた人々にとりつきだしました。

大波のようにとでもいえばいいのか、そう、炎と黒煙が波打つようにガーと人を襲うのです。

広場はたちまち阿鼻叫喚の場所となりました。それは凄惨この上なく、まさに地獄の劫火でした。逃げ場を失って地に身を伏せた人間は、瞬時にして、乾燥しきったイモ俵に火がつくように燃え上がる。

女性の長い髪の毛は火のついたカンナ屑のようでありました。背後から押された人々がぽろぽろと川へ落ちていく。わたくしもその一人であったわけです。

人間そのものが凶器になっていきます。自分が生きのびるために、人の死などかまっていられない。もうだれもが生きのびることに必死になったのです。戦争とは、そういう非人間的なものなのです。 その戦争の残虐さ、空しさに、どんな衝撃を受けたとしても、受けすぎるということはありません。

破壊力の無制限の大きさ、非情さについて、いくらでも語りつづけたほうがいい。いまはそう思うのです。戦争によって人間は被害者になるが、同時に傍観者にもなりうるし、加害者になることもある。そこに戦争の恐ろしさがあるのです。

 

許しがたい言葉に教訓がつまっている

太平洋戦争では、のべ1千万人の日本人が兵士あるいは軍属として戦い、戦死240万人(うち70パーセントが広義の餓死でした)。

原爆や空襲や沖縄などで死んだ民間人は70万人を超えます。戦火で焼かれた家屋は、 日本中で合わせて240万戸以上。まさしく本土全体が焼野原となり、万骨の空しく枯れたのち、昭和20年8月15日に戦争はやっと終結することができたのです。

その惨たる3年8カ月の間に、教訓になるようないい話があるべきはずはない、と思われますが、あながちそうでもない。そんなものはないといい切 るのは、人間は歴史から何も学ばないことを告白するにひとしいと考えま す。

8月15日正午の天皇放送を聞き、満目蕭条たる焼け跡の広がりを眺め、そしてあらためて思ったことは、この戦争で空しく死ななければならなかった人たちのことでありました。

多くの生き残った人々がそうであったと思います。太平洋戦争で亡くなった320万の人たちはいまもなお、わたくしたちに語りかけています。すなわち戦争が悲惨、残酷、そして非人間的であるということを。さらに、空しいということを。

長い〈まえがき〉になりました。90歳の爺さんがこれから語ろうとするのは、そんな非人間的な戦争下においてわずかに発せられた人間的ないい言葉ということになります。

いや、全部が全部そうではなく、名言とはいえないものもまじりますが、それでもそこから将来のための教訓を読みとることができるでありましょう。

むしろ許しがたい言葉にこそ日本人にとって教訓がつまっている。そういう意味で〈戦時下の名言〉と裏返していえるのではないかと思うのです。

 

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