『日本書紀』によれば、初代神武天皇は西の九州からやってきた。『日本書紀』には明らかに東軽視の態度が見られる。
しかし、多くの歴史学者が今上天皇の直系と考えるのは26代継体天皇だ。なぜ継体天皇は東(越の国)から即位することができたのか? 6世紀初頭の古代日本国家は何を目論んでいたのか?
※本稿は、関裕二著『地形で読み解く古代史の謎』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
初代神武天皇は、九州からやってきたと『日本書紀』はいう。だから、天皇家の故地といえば、九州と思われがちだ。しかし、第26代継体天皇は、6世紀初頭に東からやってきている。
しかも、通説は、継体天皇を新王朝の祖と考えていた。また継体天皇の血統は今上天皇まで続いているのだから、「天皇家は越(北陸)=東からやってきた」ことになる。
ところが、『日本書紀』を編纂した8世紀の朝廷が、「天皇家の故地である東を嫌っていく」から、不可解きわまりないのだ。ここに、天皇と日本史の大きな謎が隠されている。
そこでまず、なぜ継体天皇は東からやってきたのか、その事情を明らかにしておこう。『日本書紀』には、詳細な説明が記されている。継体天皇はヤマトの地理を考える上でも重要な意味を持ってくるので、詳しく紹介しておく。
継体天皇(男大迹王 おおどおう)は第15代応神天皇の五世の孫だ(皇族としての血はきわめて薄かったことになる)。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で母は垂仁天皇7世の孫・振媛(ふるひめ)である。
継体は近江国高島郡の三尾(滋賀県高島市)の別業(別邸)で生まれた。父が容姿端麗な振媛を三国坂中井(福井県坂井市)から近江に呼び寄せ、迎え入れて妃にしたのだった。
ところが早くに彦主人王は亡くなったので、振媛は幼い男大迹王(継体)を連れて、故郷の高向(坂井市丸岡町)に帰った。こうして男大迹王は、越で育てられるのである。
ちなみに、彦主人王の住んでいた三尾という土地は、交通の要衝だった。日本海側の若狭から、若狭街道の低い峠を越えてくれば三尾に出る。敦賀とも陸路でつながっている。日本海と関わりを持つのに、ちょうど良い場所だったのだ。
嫁取りは「美人だったから」と『日本書紀』はいうが、実際には彦主人王が日本海に関心を持ち、政治的につながっていこうと考えたのだろう。
5世紀後半から6世紀初頭にかけて、越の一帯はヤマトにはないような先進の文物が集まる場所に変貌していたのだ。日本海の流通が活発化していたわけで、ヤマトが越の王を連れてきたのも、日本海の発展と大いに関わりがある。
もっとも、男大迹王がヤマトに求められた理由を『日本書紀』は次のように説明する。すなわち、第25代武烈天皇は酒池肉林をくり広げ悪政を布いたこと、しかも子がなかったから、後継者が途絶えたのだという。だから継体元年(507)に、樟葉宮(大阪府枚方市楠葉)で男大迹王は即位したのだ。
5世紀後半は、中央集権国家への歩みが始まり、だからこそ、主導権争いや反動勢力の跋扈もあり、王家は混乱し、王統は途切れてしまったわけだ。そこで男大迹王に白羽の矢が立てられたというわけである。
三王朝交替説を唱え一世を風靡した古代史学者の水野祐は、継体天皇を新王朝の祖とみなし、多くの史学者が賛同していた。しかしその後、様々な考えが提出され、「越の王がヤマトを征服したのではなく、入り婿だったのではないか」とする説が、有力視されるようになってきた。
福井で育てられたという話も、何やら暗示的だ。福井平野は、東と南側が山で遮られている。これも地理の盲点で、福井県といえば目の前が海というイメージが強いが、福井平野の西側も山で塞がれていて、海から見ると、「崖の連続」なのだ。
しかも、近畿地方に通じる陸路(木ノ芽峠)は、意外な難所で、木ノ芽峠の直下に位置する敦賀市から福井平野につながる北陸本線の北陸トンネルは、長さ1万3,870メートルもある。昭和37年(1982)に開通した当時、日本最長を誇っていた。
トンネルが開通する前の北陸本線は、名実ともに難所で、スイッチバック4か所、勾配25パーセントで、時間をロスしていたのだ。一帯は豪雪地帯でもあり、鉄道が通る前は、この山塊が、大きな壁になっていた。隣接しているのに、近江や近畿地方とは異なる文化圏に属していたのだ。
民俗学者の大林太良は、現代日本の日本海の民俗を、おおよそ次のように括っている(大林太良『東と西 海と山』小学館)。
(1)青森県から新潟、富山県境(東北と共通する文化圏)
(2)富山県から福井県中部(東日本的色彩が濃い)
(3)福井県西部から鳥取、島根両県境(共通の信仰の分布地域)
(4)島根、山口両県(東北から西南に向かった文化圏の西限)
(5)北九州(本州島の日本海側の文化圏とは異なる)
(3)の福井県西部とは敦賀市から西側をさしている。福井平野は西の地域に接しているのに、峠が壁となって、東寄りの文化圏だったことが分かる。
ヤマト政権から見れば、大軍を送り込んでも、峠ではね返されるという、厄介な存在でもあったのだ。