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皇統断絶の危機。武烈天皇(第25代)から継体天皇(第26代)への皇位継承

2019年06月28日 公開
2019年06月28日 更新

吉重丈夫

継体天皇像
継体天皇像(福井県福井市)
 

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「武烈天皇」「継体天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第25代・武烈天皇
世系25、即位10歳、在位8年、宝算18歳

皇紀1149年=仁賢2年(489年)、仁賢天皇の第一皇子として誕生された小泊瀬稚鷦鷯命(おはつせわかさぎきのみこと)であり、母は雄略天皇の皇女で仁賢天皇の皇后・春日大娘娘女である。

皇紀1154年=仁賢7年(494年)1月3日、6歳で立太子される。他には皇子はおられなかった。

皇紀1158年=仁賢11年(498年)8月8日、父帝・仁賢天皇が崩御される。

皇太子は幼少だったこともあり、大臣の平群真鳥が国政を掌った。大伴金村を大連とされる。

ところが、大臣・平群真鳥は国政を縦にし、遂に皇位を欲した。そして天皇のために造営した宮が完成すると、自らがここに移り住み、臣下としての節度を弁えなかった。

皇位を簒奪しようとすることは大罪である。大伴金村は「真鳥をお討ち下さい、仰せとあれば討ちます」と進言する。太子も「このままでは天下争乱の怖れがある」とされて、11月11日、これを討伐された。まだ10歳の皇太子にこの判断ができたかの疑問は残る。しかし平群真鳥は皇統(天皇の子孫)の人ではないので、もし皇位を望んだとしたら討伐は当然のことであった。

皇紀1158年=仁賢11年(498年)12月、仁賢天皇の崩御から3ヶ月余りが経ち、10歳で即位された。異例の若さであったが他に候補はおられなかった。

都は大和国泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや 奈良県桜井市初瀬)に置かれた。

皇紀1159年=武烈元年(499年)春3月2日、春日娘子を皇后に立てられる。

この春日娘子の父・母は不詳である。父が未詳の皇后は史上春日娘子だけである。「春日」であるから、和邇氏に縁のある女性かとも思われる。

『日本書紀』には天皇の非行の数々が具体的に記され、暴君として「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあり、非常に良くない天皇として描かれている。しかし『古事記』には、そのような暴君としての記述は全くない。武烈天皇については『古事記』と『日本書紀』では全く違う評価がなされている。

皇紀1166年=武烈8年(506年)12月8日、後嗣なく、在位8年、18歳で崩御された。

ここで皇統の人、皇位継承候補者がおられなくなり、皇統断絶の危機に陥った。雄略天皇が兄弟の皇子や叔父の皇子を次々と誅されたことが、ここにきて皇位継承問題に大きく影響してきたのである。

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