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顕宗天皇(第23代)と仁賢天皇(第24代)~流浪の兄弟が皇統を継ぐ

2019年06月21日 公開

吉重丈夫

志深(志染)の石室(兵庫県三木市)

志深(志染)の石室(兵庫県三木市)
皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の2人の王子、後の顕宗天皇と仁賢天皇の兄弟が隠れ住んだとされる。
 

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「顕宗天皇」「仁賢天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第23代・顕宗天皇
世系24、即位36歳、在位3年、宝算38歳

皇紀1110年=允恭39年(450年)、履中天皇の第一皇子である磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちべのおしはのみこ)の第二王子として誕生された弘計王(をけのみこ)で、母は葛城蟻臣(かつらぎのありのおみ)の女の荑媛(はえひめ)である。履中天皇の孫に当たり、次代仁賢天皇の同母弟である。葛城蟻臣は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の孫、武内宿禰の曾孫に当たる。

弘計王の父・市辺押磐皇子は履中天皇の第一皇子であるが、雄略天皇に殺害された。

幼かった弘計王(顕宗天皇)は兄の億計王(おけのみこ)とともに逃亡し身を隠される。

その後およそ25年が経ち、皇紀1141年=清寧2年(481年)冬11月、大嘗祭の供物を調えるため、伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)が播磨に勅使として遣わされた時、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の館で新築祝いが催され、億計王・弘計王がたまたまそこで使役されていて、その宴に招かれていた。そこで勅使はその市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を発見する。

その後、清寧天皇は、「天は大きな恵を垂れて、二人の皇子を賜った」とお喜びになり、勅使を立てて明石郡に二人の皇子を迎えさせた。名乗り出たら殺されるかも知れないというお二人の怖れは、幸いにして杞憂に終わった。

皇紀1144年=清寧5年(484年)1月16日、清寧天皇が崩御される。清寧天皇には后妃はおられず、皇子女もなかった。清寧天皇がこの兄弟の出現を「天の恵み」と喜ばれたのがよく分かる。

皇紀1145年=顕宗元年(485年)正月1日、弘計王が即位される。兄の億計は「勇気を奮って最初に名乗り出たのは弟の弘計だから弟が即位すべき」と、弟の弘計は「皇太子であり兄である億計が即位すべき」と互いに皇位を譲り合っておられたが、兄・億計に説得され、弟の弘計が顕宗天皇として、36歳で即位された。

これで皇位の断絶は免れた。皇太子は先帝・清寧天皇の時そのままに、兄の億計王が務められたが、弟である天皇の兄が皇太子という事態は、これ以前も以降もその例がない。「皇太兄」という言葉はないが実質いわば「皇太兄」である。

難波小野女王が弘計王の皇后に立てられた。この難波小野女王は允恭天皇の曾孫、磐城王(雄略天皇の皇子・母は吉備稚姫)の孫、丘稚子王(おかのわくごのおう)の女王である。

この年顕宗元年4月11日、詔「来目部小楯の功を賞し給ふの詔」を発せられた。

皇紀1147年=顕宗3年(487年)4月25日、天皇はわずか3年(2年5ヶ月)の在位、38歳で崩御される。皇子女はおられなかった。
 

第24代 仁賢天皇
世系24、即位40歳、在位11年、宝算50歳

皇紀1109年=允恭38年(449年)、履中天皇の第一皇子・磐坂市辺押磐皇子の第一王子として誕生された億計王で、母は葛城蟻臣の娘・荑媛である。先帝の顕宗天皇は同母弟に当たる。

皇紀1142年=清寧3年(482年)4月17日、清寧天皇の皇太子として立太子された。そして清寧天皇が崩御されても、億計王は兄であるが弟の弘計王に即位を譲られ、自身は皇太子(皇太兄)のままであった。

皇紀1147年=顕宗3年(487年)春4月、顕宗天皇(弟・弘計王)が崩御される。

翌皇紀1148年=仁賢元年(488年)1月5日、皇太子(皇太兄)の億計王が40歳で即位される。石上広高宮(奈良県天理市)を宮とされた。

先帝・顕宗天皇(弟皇子)からの遺詔による譲位で、弟から兄へという極めて珍しい兄弟継承となった。先帝・顕宗天皇に皇子女はなく、即位に当たっての混乱はなかった。

妃であった雄略天皇の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を立てて皇后とされる。父を殺めた雄略天皇の皇女を皇后に立てられた。

仁賢2年秋9月、弟・顕宗天皇の皇后・難波小野女王は以前から兄・皇太子(仁賢天皇)に対し、礼を失したことをしたので、罰せられることを恐れ、自害された。

皇紀1154年=仁賢7年(494年)春1月3日、春日大娘皇女との間の皇子・小泊瀬稚鷦鷯命(おはつせわかさぎきのみこと、武烈天皇)を皇太子に立てられる。他に皇子はおられず、立太子に関しての争いはなかった。むしろこの時、先の雄略天皇が兄弟、従兄を次々と殺害されたため、皇統の危機が発生していた。

皇紀1158年=仁賢11年(498年)秋8月8日、在位11年(先帝崩御から11年4ヶ月、即位から10年7ヶ月)、50歳で崩御される。

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