2019年06月08日 公開
2019年06月08日 更新
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1061年=履中2年(401年)、允恭天皇の第三皇子として誕生された穴穂皇子で、母は稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ 応神天皇の皇子)の女王で允恭天皇の皇后・忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)である。
第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)には同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)との近親相姦の疑いがあり群臣が皆従わず、弟皇子の穴穂皇子の即位を願った。
これを知った木梨軽皇子は穴穂皇子を亡き者にしようとして兵を集めるが、穴穂皇子(安康天皇)の率いる兵に先に包囲されてしまう。
物部大前宿禰の計らいで戦は避けられ、木梨軽皇子は物部大前宿禰の館で自害された。こうして、皇太子・木梨軽皇子が滅ぼされる。
第一皇子で皇太子の木梨軽皇子が即位出来ず、皇位継承問題が紛糾したため、先帝の崩御からおよそ1年経った皇紀1113年=允恭42年(453年)12月14日、穴穂皇子(安康天皇)が53歳で即位される。
大和国山辺郡石上穴穂宮(奈良県天理市)に宮を置かれた。
当然に後嗣と見なされた皇太子に、周囲の群臣などが困惑するような事態があった場合の皇嗣決定に関し、ここでは群臣たちの意向が尊重されている。
しかしここで、なぜ同母兄の第二皇子・境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)を飛び越して第三皇子・穴穂皇子が即位されたかは不明である。
群臣たちの意向が大きく影響したのであろう。
翌皇紀1114年を安康元年とされる。
皇紀1114年=安康元年2月1日、安康天皇は仁徳天皇の皇子・大草香皇子(叔父)の同母妹・草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、叔母)を弟・大泊瀬稚武命(おおはつせわかたけるのみこと、雄略天皇)に娶らせたいと思われ、根使主(ねのおみ)を使者として遣わされる。
大草香皇子は喜ばれ快諾の証として、家宝にしていた押木珠縵(おしきのたまかずら)を奉られた。
ところが、使者の根使主はこの珠縵が欲しくなって、断られたと偽り、これを我が物にしてしまう。
天皇は根使主の讒言を信じてお怒りになり、この叔父・大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を攻めて誅された。この事件が後の「眉輪王(まよわのおおきみ)の変」という悲劇に繫がっていく。
大草香皇子に仕えていた難波吉師日香蚊(なにわのきしのひかか)親子3人は、嘆き悲しみ、日香蚊は皇子の頭を、子の2人は手と足をそれぞれ抱きかかえ「我らは最後までお供をしなければ」と自害した。
皇紀1115年=安康2年(455年)春1月17日、天皇は自分で殺めた大草香皇子の妃・中磯姫(なかしのひめ 履中天皇の皇女)をご自身の妃として宮に入れられ、皇后に立てられた。
大泊瀬稚武命(雄略天皇)は願いの通り、大草香皇子の同母妹・草香幡梭姫皇女を妃とされた。
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更新:11月21日 00:05