2019年05月27日 公開
反正天皇陵(大阪府堺市)
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀996年=仁徳24年(336年)、仁徳天皇の第三皇子として誕生された多遅比瑞歯別命(たじひのみずはわけのみこと)で、母は仁徳天皇の皇后・磐之媛である。先帝・履中天皇の同母弟である。
前述の通り、父・仁徳天皇の崩御後、反乱を起こした同母兄の住吉仲皇子との通謀を疑われたこともあって、兄の皇太子(履中天皇)の命令でこれを攻め滅ぼし、兄・住吉仲皇子を誅殺された。
瑞歯別命は嘆いて言われる、「私にとっては太子も住吉仲皇子も共に兄、誰に従い、誰に叛くべきか迷う。しかし無道を滅ぼし、道のある人につけば、誰が自分を疑うだろうか」と。
同母兄である第二皇子の住吉仲皇子は、自ら事件(黒姫を犯す)を引き起こし自滅してしまわれたが、この事件がなければ住吉仲皇子の即位もあり得た。
皇紀1061年=履中2年(401年)1月4日、履中天皇には磐坂市辺押磐皇子(御馬皇子 みまのみこ)という2人の皇子がおられたが、同母弟・瑞歯別命が立太子(皇太弟)される。
雄朝津間稚子宿禰命(おあざづまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)も即位を打診されておられたのか、履中5年1月、皇子は、「それ天下は大いなる器なり。帝位は鴻業なり。且つ民の父母はこれ即ち聖賢の職、あに下愚の任へむや。さらに賢王を選びて宜しく立つべし。寡人敢へて当らじ」とのお言葉を発せられ、即位を辞退しておられる。
皇紀1066年=反正元年(406年)1月2日、前年春3月先帝・履中天皇が崩御され、71歳で皇太弟の瑞歯別命が即位された。皇位の兄弟継承の始まりとなった。
初めての兄弟の皇位継承であり、皇位継承の在り方が多様化する。
先帝は崩御4年前、即位の翌年に皇太弟を立てておられたので、内心では後嗣は決定しておられたと見てよい。
これまでなかった兄から弟への継承であり、先帝・履中天皇に皇子がおられたのに混乱がなかったのは、父帝・仁徳天皇の兄弟継承についての遺詔があったからと考えられる。
初代・神武天皇が即位されてから千年の長きにわたって皇位は父から子へ、あるいは皇孫に継がれてきたが、ここで兄弟に継がれたことは先帝・仁徳天皇の意向があってのことであろう。それだけ仁徳天皇の存在は大きなものであったといえる。
いずれにしてもこれが先例となって、以後兄弟継承がしばしば行われるようになる。
なお、兄弟継承の場合は世系(世代の数)に変化はない。
この年秋8月6日、大宅臣の先祖で豪族の木事の娘・津野姫を皇夫人とされ、その妹・弟媛を妃とされる。皇夫人と称されたのは史上でこの津野姫だけである。即位が遅く、皇后は立てられなかった。
皇后を立てられなかったのは成務天皇に次いで史上2人目である。
皇夫人・津野姫との間に香火姫皇女(かいひめにひめみこ、甲斐郎女:かいのいらつめ)と円皇女(つぶらのひめみこ)が、また妃・弟媛(津野姫の妹)との間に財皇女(たからのひめみこ)、高部皇子がおられた。しかし高部皇子は皇位を争ってはおられない。
この年10月、丹比柴籬宮(たじひのしばがきのみや、大阪府松原市上田)に宮を遷された。
皇紀1070年=反正5年(410年)1月23日、天皇は在位5年(4年3週間)、75歳で崩御される。
更新:11月23日 00:05