2019年05月13日 公開
2019年05月13日 更新
宇佐神宮
全国八幡宮の総本社。祭神として応神天皇、比売(ひめ)神、神功皇后を祀る。古来より朝廷の崇敬をうけている。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀860年=仲哀9年(200年)12月14日、仲哀天皇の皇后・神功皇后は神託を受け、朝鮮半島を攻めた(三韓征伐)。
神託の通り、新羅は戦わずして降伏し、日本に服属を誓った。
そして三韓征伐から帰朝されてすぐに誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)が宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で誕生される。
皇紀861年=仲哀10年(201年)、神功皇后摂政元年とする。誉田別命(応神天皇)が誕生されて直ぐに即位されたとして、母である神功皇后が摂政に就かれたのである。
仲哀天皇には大中姫命(おおなかつひめのみこと)を母とする麛坂皇子(かござかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)がおられたので、生後間もない誉田別命が即位するわけにもいかず、かといって皇后・神功皇后が即位するということも当時としては考えられず、結局神功皇后が摂政となられた。
誉田別命が成長するまでの間、皇后である神功皇后が政務を執るということで決着したのである。
翌神功皇后2年2月、皇后は群卿百寮を率いて穴門豊浦宮(下関市)に移られ、仲哀天皇のご遺体を収めて海路で都に向かわれる。
この時、仲哀天皇の皇子で妃・大中姫命(景行天皇の孫女王)を母とする麛坂皇子と忍熊皇子が、皇后に皇子が誕生されたことを知り謀反を企てる。
誕生した皇子は異母弟ではあるが、皇后の皇子であるから、皇位継承の最有力候補者であるとも考えられる。そこで今のうちに亡き者にしようと企んだのであった。
誉田別命(応神天皇)の異母兄に当たるこの二人の皇子は、皇位継承に関する神意を占うため、祭壇を設けて仮の桟敷におられた。
そこに赤猪が突然飛び出して来て、桟敷に登って麛坂皇子を食い殺した。これを見た忍熊皇子は慌てて退却して住吉に移動し、その後、山城方面に移動され宇治に逃れるが、そこで武内宿禰(たけしうちのすくね)軍に敗れ、瀬田の渡りで身を投げて薨去される。反乱はこうして鎮定された。
なお古事記では、誉田別命(応神天皇)は誕生まもなく薨去され、ご遺体を運ぶと偽りの連絡をされた上で、都に上られたとある。
皇紀863年=神功皇后摂政3年(203年)春1月3日、4歳になられた誉田別命を立てて皇太子とされる。前述の通り立太子の前年、異母兄の麛坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こすが鎮圧され、誉田別命が立太子されたのであった。
神功皇后は『日本書紀』『古事記』には詳述されているが、現在の歴史教育では存在が無視されている。
先の大戦までは学校教育の場で教えられ教科書にも載っていたが、戦後GHQの命令で教科書から削除された。
ここから古代の日本と半島の歴史が始まるのであり、日本の歴史上は極めて重要な皇后(摂政)である。ここで神功皇后が実在しないとしたら、古代の日本と半島との関係は全く分からなくなる。
GHQの命令で日本は歴史を改竄させられ、それを未だに直していない。
また宇佐八幡神宮をはじめ全国の八幡さま(八幡神社)の御祭神は仲哀天皇と応神天皇であり、合わせて神功皇后を祀っていることも多い。
また神功皇后は大正の御世に至るまで天皇とされることも多かった。
明治14年に政府が発行した改造1円札や明治41年発行の五円切手などは神功皇后の肖像である。
皇紀929年=神功皇后69年(269年)夏4月17日、神功皇后は稚桜宮(わかさくらのみや)にて100歳で崩御された。
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更新:11月23日 00:05