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第11代・垂仁天皇と狭穂彦王の叛乱

2019年04月15日 公開
2019年04月15日 更新

吉重丈夫

垂仁天皇 菅原伏見東陵
垂仁天皇 菅原伏見東陵
(奈良県奈良市)

天皇陛下の譲位と平成改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「垂仁天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第11代 垂仁天皇
世系16、即位41歳、在位99年、宝算140歳

垂仁天皇の即位

皇紀592年=崇神29年(前69年)1月1日、崇神天皇の第三皇子として磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で誕生された活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)は大彦命の娘・御間城姫命(みまきひめのみこと)である。

皇紀615年=崇神52年(前46年)4月19日、活目入彦命(垂仁天皇)が19歳で立太子される。

先帝・崇神天皇の崩御の20年前に、多数おられた皇子の中から、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦命をお呼びになり、夢占いをして後嗣を決めておられた。

従って、誰も皇位を争うような状況下にはなかった。

尚、異母弟に八坂入彦命(やさかのいりひこのみこと)がおられ、その女王・八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)は次の景行天皇の妃となられ、成務天皇の母となられる。

従ってこの異母弟・八坂入彦命は後の成務天皇の外祖父である。

皇紀631年=崇神68年(前30年)12月5日、崇神天皇が崩御された。

皇紀632年=垂仁元年(前29年)1月2日、活目入彦命が41歳で即位される。

同母弟に倭彦命(やまとひこのみこと)がおられたが、皇位を争われた記録はない。

翌2年10月、宮を纒向珠城宮(まきむくたまきのみや、奈良県桜井市)に置かれた。
 

狭穂彦王の叛乱

皇紀633年=垂仁2年(前28年)2月9日、祖父・開化天皇の第三皇子・彦坐王(ひこいますおう)の女王で従妹(皇族)の狭穂媛(さほひめ)を皇后に立てられた。

皇紀636年=垂仁5年(前25年)、皇后・狭穂媛は謀反を起こした兄の狭穂彦王に味方し、戦陣で兄と共に焼死して命を絶たれた。

天皇は倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた 崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命の子)に狭穂彦を討伐させるが、狭穂彦も稲を積んで城塞とし防戦する。

八綱田はこれを包囲し、「皇后と皇子を引き渡せ」と迫るが応じないので城塞に火を掛ける。

これは天皇の即位から4年後のことなので、皇位を簒奪しようとする反乱であった。

皇后は生後間もない皇子を抱いて出てこられ、「私と皇子がいれば兄を許してもらえると思ったが、許されないのであれば私共はここで自害します。死んでも決して天皇のご恩は忘れません。私のしていた後宮のお役目は、丹波国にいる弟・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと 開化天皇の曾孫)の娘たち五人(姪)を召し入れて、補充してお使い下さい」と言われる。

天皇はこれを聞き入れられ日葉酢媛(ひばすひめ)、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あさみにいりひめ)、竹野媛(たかのひめ)を妃とされた。

狭穂彦と皇后・狭穂媛はそこで自害し薨去された。
 

大足彦忍代別命の立太子

皇紀661年=垂仁30年(1年)1月6日、天皇は皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと)に「お前達、何が欲しいか言ってみよ」と言われた。

兄は「弓矢が欲しいです」と言われ、弟は「天皇の御位が欲しいです」と申し上げる。

天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と詔され、五十瓊敷入彦命には弓矢を賜り、大足彦忍代別命(景行天皇)には「お前は必ず我が位を継げ」と仰せられた。

二人はどちらも丹波道主命の女・日葉酢媛命の皇子たちである。天皇としてはどちらを後継にしようかと迷われ、口頭試問によって決められたようである。

先帝・崇神天皇は二人の皇子を呼んで夢占いをさせられたが、垂仁天皇は何が欲しいかを直接尋ねられ、その答えによって後嗣を決めておられる。

いずれも天意を伺う祈りが込められている。

他にも皇子は多数おられたが、この二人を選んで、その上で面接して後嗣を決められた。垂仁天皇の意向で早い時期に選んでおられる。

垂仁天皇が即位されてから五年後に狭穂彦と皇后・狭穂媛が皇位簒奪を目論んでの反乱を起こしたが、その後は問題は起きていない。

皇紀668年=垂仁37年(8年)1月1日、「天皇の御位が欲しいです」と答えられた第三皇子の大足彦忍代別命(21歳)を立てて皇太子とされる。

しかし、口頭試問から7年が経過しているので、その間天皇は二人の様子を見ておられたものと思われる。

皇紀730年=垂仁99年(70年)秋7月14日、天皇は纒向にて在位99年、140歳で崩御された。

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