2019年05月01日 公開
平成から令和へ、という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「成務天皇」「仲哀天皇」をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀744年=景行14年(84年)、先帝・景行天皇の第四皇子として誕生された稚足彦命(わかたらしひこのみこと)であり、母は崇神天皇の皇子・八坂入彦命(やさかのいりひとのみこと)の女王で景行天皇の皇后・八坂入媛命(やさかのいりひとのみこと)である。つまり母方も父方も曾祖父が崇神天皇である。
皇紀773年=景行43年(113年)、異母兄の小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)が薨去される。
皇紀781年=景行51年(121年)8月4日、稚足彦命が38歳で立太子される。
『日本書紀』には24歳とあるが、小碓尊(日本武尊)が薨去されたとき30歳であり、先帝・景行天皇条には景行51年に皇太子に立てたとあるので、正式にはこの時と思われる。皇統譜にも景行51年立太子とある。
先帝・景行天皇は小碓尊(日本武尊)を立太子させるお積もりであったが、先に薨去されたので稚足彦命を皇太子に立てられたのである。
同じく、異母兄に大碓尊(おおうすのみこと)がおられたが、蝦夷征伐を命じられ逃げてしまわれたので、美濃国に封じられていた。
皇紀790年=景行60年(130年)11月7日、景行天皇が崩御される。
皇紀791年=成務元年(131年)1月5日、稚足彦命が成務天皇として48歳で即位され、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、滋賀県大津市)に都を置かれた。
皇紀838年=成務48年(178年)3月1日、成務天皇に皇子がなく、異母兄・小碓尊(日本武尊)の王子である甥の足仲彦命(たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)を皇太子に立てられた。
後嗣となる皇子がない事態に陥ったのは、初代神武天皇以来初めてのことであった。
日本武尊は先帝の指図に従って西へ、東へと遠征され、大きな手柄を立てられ、大変な功績がある上に、若くして薨去されたので、その王子が立太子されることには何の抵抗もなかった。
このことは奈良県御所市富田と大阪府羽曳野市軽里(軽里大塚古墳)の二ヶ所に白鳥陵が築造されていることや、次の仲哀天皇の詔「白鳥を貢らしめ給ふの詔」からも推定される。
皇紀850年=成務60年(190年)6月11日、在位60年、107歳(皇統譜)で崩御される。
『古事記』には95歳とある。
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更新:11月21日 00:05