2019年05月01日 公開
忌宮神社(山口県下関市)
仲哀天皇と神功皇后、応神天皇を祀す。文武の神、安産の神として歴代の朝廷や武家、多く庶民の信仰を受けてきた。
皇紀808年=成務18年(148年)、景行天皇の第二皇子である小碓尊(日本武尊)の第二王子として誕生された足仲彦命である。母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)で皇族である。足仲彦命は容姿端正で背丈が十尺(約3メートル)あったと伝えられている。
皇紀838年=成務48年(178年)3月1日、足仲彦命が31歳で立太子される。
足仲彦命が立太子されて12年後、成務60年、先帝・成務天皇が崩御される。
皇紀852年=仲哀元年(192年)1月11日、皇太子・足仲彦命が45歳で即位された。先帝・成務天皇に皇子がなかったので継承問題が紛糾することはなかった。
しかし先帝崩御から新帝ご即位まで1年半が経っているので、何らかの問題があったことも推測される。
なにしろ先帝・成務天皇までおよそ850年の長きにわたって、全て先帝の皇子が皇位を継いでこられたが、ここで初めて先帝に皇子がなく、先帝の甥に当たる足仲彦命が仲哀天皇として即位されたという事情が関係していると推察される。
11月1日、「父王(日本武尊)追慕のため群臣に「白鳥を貢らしめ給ふの詔」を発せられる。
皇紀853年=仲哀2年(193年)1月11日、後の神功皇后である気長足姫(おきながならしひめ、皇紀830年=成務40年誕生)を皇后に立てられた。この皇后・気長足姫は第九代開化天皇の玄孫で彦坐(ひこいます)王の曾孫・息長宿禰(おきながのすくね)王の女王である。息長氏は近江に勢力を張った皇別豪族である。
気長足姫を皇后に立てられて間もない仲哀2年2月6日、越前の敦賀に行幸された。
仲哀2年3月、熊襲が叛いて貢ぎを奉らなかった。貢ぎを奉らないということは、徴収した税を朝廷に納めないで横取りするということで、反乱を意味した。
天皇は熊襲を討つために西下され、豊浦宮(山口県下関市)に行宮の穴門豊浦宮(あなととゆらのみや)を設けられた。
皇紀859年=仲哀8年(199年)春1月4日、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に移られた。
秋9月5日、群臣と熊襲討伐の作戦について相談をされる。
ところがここで天皇は、神懸かりした皇后(神功皇后)から神託を受けられる。それは、
「西海の宝の国(新羅)を授けるから、熊襲討伐は止めて新羅を攻めよ。きっとその国は刀に血ぬらないで(戦うことなく)服従するであろう。そうすれば熊襲もまた自ずと従うであろう」
というものであった。
しかし、仲哀天皇は、これを疑って、見渡しても西にそんな国は見当たらないと、神託を批判される。そして熊襲を攻められたが勝てなかった。神は再度神託で、
「信じないなら、その国は今皇后が妊っているその子(誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)に授けよう」
と言われる。
翌皇紀860年=仲哀9年(200年)春2月5日、神託を信じられない天皇は神の怒りに触れ病に陥られ、翌日6日に香椎宮で突然崩御された。在位9年、宝算52歳であった。
更新:11月22日 00:05