2019年02月19日 公開
2019年02月19日 更新
神武天皇陵(奈良県橿原市)
天皇陛下の譲位と平成改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえりまます。第1回は「初代・神武天皇」をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
初代天皇・神武天皇は天照大神の勅命(神勅)を受けて高千穂に天降られた皇孫(天照大神の孫)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫である。
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といわれ、父・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと 鵜茅不合葺命:うがやふきあえずのみこと)の第四王で、母は玉依姫尊(たまよりひめのみこと)である。
玉依姫尊は皇孫・瓊瓊杵尊の孫で、父の鸕鶿草葺不合尊の母である豊玉姫の妹(海神の娘)で叔母に当たる。
神日本磐余彦尊(神武天皇)には、日向におられた時の妃・吾平津媛(あひらつひめ 阿比良比売)との間に誕生された皇子である、手研耳命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)の同母兄弟がおられた。
神日本磐余彦尊(神武天皇)は第一皇子・手研耳命だけをお連れになって東征に出掛けられる。
浪速国の白肩津(あるいは孔舎衛坂)で長髄彦(ながすねひこ)と交戦され、その時、長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が長髄彦の放った矢に当たり矢傷を負われた。
彦五瀬命は、
「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東に向かって)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西に向かって)戦おう」
と助言され、一行は南へ向かう。
しかし紀国の男之水門(おのみなと 泉南市樽井)に着いたところで、彦五瀬命の矢傷が悪化し東征途中で薨去された。和歌山市の竈山(かまやま)神社に祀られている。
次兄の稲飯命(いないのみこと)も、熊野に行く途中で暴風に遭い、
「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」
と言って剣を抜いて海に入って行かれ、「鋤持(さびもち)の神」になられた。
三番目の兄の三毛入野命(みけいりののみこと)も熊野に進む途中、暴風に遭い、
「母も叔母も海神であるのに、どうして我らは波によって進軍を阻まれなければならないのか」
と言って、波頭を踏み、常世に行かれた。
皇紀元年、神日本磐余彦尊は長男の手研耳命だけお連れになって大和に入られ、皇紀元年辛酉春1月1日、橿原の地で「奠都の詔」を渙発され、即位された。
初代天皇・神武天皇の誕生であり、日本の建国でもある。
この年を皇紀元年=神武天皇元年(前660年)と定める。
大和に入られて娶られた正妃・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とされる。
媛蹈鞴五十鈴媛は事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で、大神大物主神(おおみわおおものぬしのかみ 三輪明神)、素戔嗚尊(すさのおおのみこと 大国主命の子孫で国津神系である。
ここで天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた一つに統合されることになった。
皇后・五十鈴媛との間に、神八井耳命(かんやいみみのみこと)、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと 日子八井命)、神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)の三皇子が誕生される。
皇紀42年=神武42年(前619年)1月3日、天皇は第三皇子の神渟名川耳命を皇太子と定められた。
神武東征で日向から行動をともにされた第一皇子である手研耳命を差し置いての立太子で、これが後に悲劇を生むことになる。
神武東征で日向から神武天皇とともに大和に入られた第一皇子・手研耳命を立太子させないで、大和の地で誕生された、それも一番歳下の異母弟・神渟名川耳命を皇太子とされたのである。
天皇としては、やはり将来のことを思い、一番若い皇子を後嗣に選ばれたものと思われる。そして媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子を選ばれたことについては、地元の事代主命の娘という立場がこれからの国造りに大いに役立つとも考えられたのであろう。
一番下の皇子ということはその後もあり、必ずしも第一皇子が後嗣になってはおられないし、皇位は必ずしも長子が承継するわけではないということである。
皇位の継承は相続ではないし、家の継承でもないからである。
神渟名川耳命が立太子されてから34年後、皇紀76年(前585年)春3月11日、在位76年、127歳で崩御された。皇統譜では137歳とある。
更新:11月21日 00:05