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古代日本を大きく動かしたのは「鉄」をめぐる争いである。
生産工具や武器など、当時最先端の利器であった鉄をいかに独占するか? 北部九州勢力はヤマト勢力に対し、関門海峡という格好の地形を利用して、存亡をかけた戦いに挑んでいたのである。
※本稿は、関裕二 著『地形で読み解く古代史の謎』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです
鉄という、厄介な文明の利器がある。
あまりにも便利で、農具にすれば生産性を高め、武器にすれば殺傷力が強く、しかも大量生産が可能ときている。一度鉄を手に入れた権力者は、その入手ルートを独占し、製造方法を秘匿するものなのだ。だから、鉄は奪い合いになる。
朝鮮半島に近く、優秀な海人と、止まり木となる島々を握っていた北部九州の首長たちは、鉄の独占を目論んだはずだ。
朝鮮半島南部(のちに伽耶や新羅と呼ばれる地域)に、鉄資源が眠っていた。そして、方々から鉄を求めて人々が集まっていたのだ。『魏書』東夷伝には、次のようにある。
"国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従いて之を取る。諸市買うに皆鉄を用う。"
『後漢書』東夷伝にも、そっくりな記事が載る。貿易に際し、鉄を貨幣のようにして取引していたともある。
ここにある「倭」とは、日本列島の人々だろう。鉄を採りに行ったのは、海人たちであろう。彼らは優秀な水夫であり、商人、技術者でもあった。ここでも、北部九州沿岸部から対馬にかけての海人たちが活躍したにちがいないのだ。
そして北部九州の人々は、「最悪の場合でも、ヤマトに鉄を渡してはならない」と考えていたのではなかろうか。なぜなら、ヤマトは西側に対する防御が鉄壁だったからだ。
もし仮に、ヤマトに鉄が流れ込み、発展したら、北部九州はこれを討ち滅ぼすことができない。逆に、ヤマトは朝鮮半島に続く重要なルート上に位置する北部九州が、邪魔になるだろう。当然、力と富を蓄えれば、いずれ攻め込んでくるのは間違いない。その時、北部九州に勝ち目はなかったのだ。
ここでいよいよ、地理と地形が大きな意味を持ってくる。まず、ヤマトが北部九州勢力を攻めるなら、どこから攻撃するだろう。北九州市付近から船団を西に進め、福岡市の手前に上陸し、福岡平野を北側から攻めるのが、正攻法だろう。
そしてもうひとつ、背後から攻める場合、有明海から上陸するという手がある。さらに、東側から攻めることも可能だ。じつは、北部九州には、防衛上のアキレス腱があった。それが、大分県日田市の盆地だ。
瀬戸内海側から攻めてくる敵に日田盆地を奪われれば、これを奪還することはむずかしい。筑後川は筑紫平野を悠々と流れるが、上流に向かうと日田盆地の手前で狭まり、大軍が攻め上ることは困難だ。
逆に、日田盆地から船団を組んで流れ下れば、筑紫平野にすばやく兵を展開できる。現実に軍団が川を下ってこなくても、筑紫平野の諸勢力にとって、日田は潜在的な脅威になる。さらに、北部沿岸部の首長たちにすれば、海と背後から襲われる恐怖を抱え続けなければならない。
興味深いのは、ヤマトに纏向遺跡が誕生した時代とほぼ並行して、日田盆地の北側の高台に、政治と宗教に特化された環濠(あるいは環壕)集落が出現していて(小迫辻原遺跡)、纏向の盛衰とほぼ重なっていること、遺跡から畿内と山陰系の土器が出土していたことだ。
ヤマト政権は、日田を奪っていたようなのだ。この事実は無視できないし、ヤマト建国の目的や過程が、日田から見えてくるのではあるまいか。
ちなみに、日田に楔を打ち込むことで、北部九州は身動きがとれなくなることは、戦略家ならみな分かっていたようだ。近世に至っても、徳川幕府は北部九州の地政学をよく心得ていて、日田を天領(幕府直轄領)にしている。
「東の政権」は、日田を必要としたのだ。そして、弥生時代後期、北部九州の諸勢力は、自身の弱みとヤマトの強みを知っていたからこそ、鉄を独占しようと考えたのだろう。
北部九州は、「積極的にヤマトを締め上げる策」に出たようなのだ。ここで出雲と吉備が鍵を握ってくる。
弥生時代後期に、出雲は急速に鉄器を獲得していく。そして、吉備にも、鉄が流れ込み、ふたつの地域が一気に発展する。出雲の四隅突出型墳丘墓が巨大化し、越に伝播した。
そしてヤマト建国直前の吉備には、楯築弥生墳丘墓が出現し、これが前方後円墳の原型になったのではないかというのは前述した通りだ。ところが、ヤマトには、鉄はほとんど入っていない。ここに大きな謎がある。
こういう説がある。北部九州勢力はヤマトに鉄を渡さないために、「地理」を利用したのではないか、というのだ。つまり、川のような狭い関門海峡を封鎖し、瀬戸内海経由でヤマトに鉄が流れることを阻止した。
そして、日本海ルートを潰すために、出雲と手を組み航路を監視させ、その見返りに、出雲には鉄を流し、また、そのおこぼれにあずかったのが吉備ではないか、というのだ。
大いにあり得ることだし、有力視されている考えだ。
日本を見渡せば、因縁めいた地形は各所に散らばっているが、関門海峡は、もっとも特徴的な場所だ。
ちなみに、「関門」は、関所のようだったからつけられた名ではない。「下関」と「門司」の間に横たわる海峡だから、「関門」となった。ただし、昔は馬関海峡と呼ばれ、さらに古くは「赤間関」と呼ばれていた。
物部系の赤間氏が支配していた場所で、「関」と名がつくところから、ここが交通の要衝であり、しかも、通行を制限、管理されていたことが分かる。
関門海峡は東は満珠島のあたり、西は馬島、六連島までの約25キロにわたる水域だ。周防灘(内海)と響灘(外海)を結ぶ海峡で、内と外両方に「灘(航海の難所)」とあるのは潮流が速いためだ。
関門海峡でもっとも幅の狭い場所(早鞆瀬戸)は600メートル。潮の満ち引きで、最大約9.4ノット(1ノットは時速約1.8キロ。自転車並みのスピードで潮が流れることになる)の流れが生まれるという、海の難所でもある。