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ヤマト勢力が「鉄」を持たなかった謎… 鍵を握る関門海峡 

2021年05月21日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

 

関門海峡をめぐる戦いは幕末まで続いた

源平合戦最後の壇ノ浦の戦いは、まさにここでくり広げられた。潮の流れに乗った源義経が勝利したことは、よく知られている。

平家はここから九州に逃走すれば助かっただろうに、滅亡の道を選んだのは、交易によって富を蓄えようとした政権ゆえに、関門海峡を失えば、生きていけないことを知っていたからだろう。

潮の流れに逆らって進むのはまず不可能で、船の往き来を監視し海峡を管理するのは楽だっただろう。ほぼ一方通行であり、潮待ちをする場所も限られていたにちがいない。

忌宮神社の沖合の満珠島、干珠島が関門海峡の入口と目されているのは、おそらくこの島の周辺で潮待ちしたのだろうし、事実、源義経の船団は最初、このあたりに集結していた。

古代最大の豪族・物部氏が関門海峡の両岸を支配していたのは、ここを手に入れた者が、日本の流通と軍事を差配できるからだ。

本州島と九州島を隔てる海の幅が、たった600メートルだったことが大きな意味を持っていたのであり、だからこそ、関門海峡の奪い合いが起こり、ここを支配する者が現れたのである。

幕末の文久3年(1863)、長州藩は攘夷を実行するために、馬関を通過する外国船に砲撃を加えた。翌年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊が長州藩の砲台を砲撃し、上陸した(下関戦争)。

このあとイギリスは長州藩に関門海峡の首根っこにあたる彦島の借款を要求したが、高杉晋作が断固拒否し、事なきを得た。この時、彦島を奪われていたら、その後の日本の流通はイギリスに支配されていたかもしれない。

アングロサクソンの戦略眼、地政学的な直感は、恐ろしい。それほど、関門海峡は日本全体に、大きな影響を及ぼす場所で、しかも因果な地形なのである。

 

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