2021年04月12日 公開
2022年10月06日 更新
軍備強化は斉昭の方策の一部でしかなかった。彼は、尊敬してやまない2代藩主・徳川光圀の政治に対する姿勢・施策に範を取り、仁政を目的とした愛民専一の農村改革を進めた。
藤田東湖の主導で行なわれた検地、税制の改革、行政改革に目を光らせるだけでなく、家臣団の態度を改めさせようとしたのである。
『告志篇』において、「朝夕食する所の米穀は粒々民の辛苦にして……食する毎に此所を忘れず、一拝して箸を取ても然るべき程の事なり」と記し、家臣たちが毎日米が食べられるのも、農民の重労働のおかげであるから農民を尊敬せよと説いた斉昭は、農人形と呼ばれる小さい人形を作り、食事の度に米を捧げて感謝していた。
しかも自分だけでなく、子供たちにも農人形を作って与え、武士の生活を支えている農民の苦労に思いを寄せ、農民に感謝する気持ちをもつように教え諭した。ここにも、斉昭の愛民専一の思想が表れている。
また、斉昭は、水戸に華やかで壮大な庭園(偕楽園)を造った。梅と桜に加えて、杉や竹も植えられた園内には、詩歌を詠んだり、茶会などの催しを開けたりする好文亭を、千波湖を見下ろす台地の際に設けている。
偕楽園を、学問の場所である藩校・弘道館と対をなす施設と考え、斉昭はそれを「一張一弛」と表現している。つまり、弘道館で学んで「張」り詰めた心身を、「弛」める場所が偕楽園というわけである。
なお、江戸時代の大名の庭園は民に開放することを目的としていなかったが、偕楽園は当初から開放が意識されている。
その意味では、偕楽園は日本最初の「公園」(パブリックパーク)だったと考えられるが、民の慰安のために庭園を開放するという発想は、斉昭が民を藩の重要な担い手と認識していたことを示している。
ではその一方で、民は斉昭をどう捉えていたのだろうか。その治世の初期は、いわゆる天保の飢饉(1833~37年)が東日本を襲っていた時期と重なり、改革の推進は生活改善どころか、混乱をきたしていた。
それでも斉昭は、豪農・神官・猟師などの間に支持を固めることに成功したといってよい。なかでも重要なのは豪農層である。彼らは改革を支持し、一定の教育も受けていることから、水戸学を背景とした改革派学者たちの思想を理解した。
藩内の神官たちは、神道を奨励する宗教政策により恩恵を受けた。豪農層と神官をひきつけた結果、彼らは水戸学者の国粋的思想と宗教教育を後押しし、改革派の武士たちとともに、斉昭の政治基盤になった。
また軍事改革は、猟師などの庶民に軍事的技術を習得する機会をもたらし、外国勢力による日本の危機を理解させることにつながった。
しかし、斉昭を支持する層は比較的裕福で教育を受けていた人々であり、大多数を占める農民は教育レベルが低く、改革から得られる恩恵も少なかった。実際、斉昭の藩政改革は農村の富農層と一般農民の間における緊張を高め、1830年代以降、村人たちが徒党を組んで藩に訴えを起こしてもいる。
斉昭が農民の騒動に対して敏感になったのは、天保7年(1836)に発生した甲斐郡内一揆からである。天保期は江戸時代で百姓一揆が最も多く発生した時期で、甲斐郡内一揆は日本中で多発した一揆の一つだが、甲斐一国を巻き込む大規模なものだった。
この大規模な一揆の影響を懸念した斉昭にとっては、「大多数の農民層からの支持があって当然」などと楽観的に考えられなかっただろう。斉昭は、大きな百姓一揆や騒動を防ぐ目的で、飢餓が差し迫っていた人々に備蓄米を分配し、天保飢饉の時期を通して、餓死者をゼロと公表することができた。
そうしながらも、豪農や神官たちを通じて村民を慰撫、監督し、不満の拡散を避けようとしている。このアメとムチを使い分けた方策で、百姓一揆が起こることなく、斉昭は天保期の困難を乗り切り、政治基盤を固めたのである。
更新:11月23日 00:05