2018年03月03日 公開
2019年02月27日 更新
<画:大蘇芳年、月岡米次郎「安政五戊午年三月三日於テ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」(国立国会図書館蔵)>
安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変が起こりました。江戸城桜田門外において、大老井伊直弼が水戸浪士、薩摩浪士らに襲撃され、討たれた事件です。
事件が起きたのは西暦でいえば現在の3月24日でしたが、その日は大雪。。まさに桜がほころびかけた頃、季節外れの降雪でした。
前日、品川宿の土蔵相模で訣別の宴を張った浪士たちは、3日早朝に数人ずつに分かれて出立、午前7時頃には待ち合わせ場所の芝の愛宕神社に指揮役の関鉄之助はじめ総勢18名が揃い、桜田門へと向かいます。
その日は上巳の節句で、在府の諸大名は登城し、将軍に賀詞を述べる慣わしでした。浪士たちは大名行列の見物を装って、井伊大老の登城を待ったのです。
午前9時。桜田門から僅か500mの彦根藩邸から井伊大老の行列が現われます。大老の駕籠を20数名の徒士と40名の足軽が守っていました。実は直前に、井伊直弼のもとに身の危険を知らせる情報が届いていましたが、直弼はあえて供廻りを増やしていません。大老自ら幕府のルールを破るわけにはいかなかったのと、彼もまたとうの昔に、いざという時に命を捨てる覚悟を固めていたからです。
激しい降雪のため、駕籠を守る徒士は刀が濡れぬよう柄袋をつけていました。やがて駕籠が進み、現在の警視庁の前あたりで水戸浪士の一人が訴状を手に、訴えを装って行列の足を止めます。そして別の一人が駕籠目がけて短銃を放ち、その銃声を合図として、浪士たちは行列に斬り込みました。
この事件で痛感するのは水戸浪士も井伊直弼も、誰もが国の行く末を案じ、命を捨てる覚悟で事に臨んでいたということです。黒船来航以来の諸外国の圧力の前に、あくまで朝廷から大政を委任された幕府大老として、国難にあたろうとした井伊直弼。井伊を除くことで、「朝廷を尊ぶ幕府」の姿に正せると信じた水戸浪士たち。結果、井伊直弼は討たれ、彦根藩の供廻り7人が闘死、11人が負傷。一方、水戸浪士で闘死・自刃した者5人、自訴した者、後に捕らえられた者11人が処刑され、明治を迎えることになるのです。
命を捨てて事に臨んだ彼らがあって、はじめて維新に至ったという事実を、日本人として知っておきたいところです。
更新:11月21日 00:05