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可児才蔵、寺沢広高…もっと知られるべき戦国武将の「驚くべき逸話」

2021年03月24日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

戦国武将

マイナーな戦国武将の中には、まだまだ知られてほしい男たちがいる。さすらいの戦争請負人や率先垂範すぎる名君など、二人の功績と、人となりを紹介しよう。

※本稿は、『歴史街道』2021年4月号の特集2「もっと知ってもらいたい『戦国武将』」から一部抜粋・編集したものです。

 

さすらいの戦争請負人――可児才蔵吉長

可児才蔵吉長は大功を求めて戦場を転々とし、47歳の時の関ケ原合戦で東軍の福島正則に陣借りし、ようやく抜群の手柄を立てた人物である。

美濃可児郡(現在の岐阜県御嵩町)の出身で、地元の古刹・願興寺の伝承では、天正元年(1573年)に越前の朝倉義景が滅亡した際、身重の側室が願興寺を頼って生まれた子で、7歳の頃、越前に出て可児才蔵を名乗ったとされる。

この才蔵にはツキがなく、斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、織田信孝らのもとを渡り歩いたが、その主人たちは非業の死を遂げて、夢は叶わなかった。本能寺の変では光秀方として参戦したとされ、この時、敵将の首を打ち損じた仲間に首の捕り方を教えた話が残るが、本人は機会に恵まれず、何の手柄も立てられなかったようだ。

そして才蔵は骨のある男だった。天正12年(1584年)の長久手の戦いの陣で、主君の羽柴秀次が敗走した際、途中で馬に逃げられて徒歩となり、馬に乗った才蔵に行きあう。秀次は馬を貸すように命じるが、才蔵は「雨降りに傘を貸す者などおらぬ」と言い放ち、秀次を無視して走り去った。

これに秀次は怒って、もちろんお払い箱になった。戦場にあっては身分など関係ないという、一匹狼ならではの、才蔵の生き様をよく示す逸話といえよう。

才蔵は常々、行軍の途中に笹竹を切り取っては、背中につけて旗印として戦っていた。信長の家臣で美濃金山城主の森長可(蘭丸の兄)が信濃で戦った際、首級の実検時に、才蔵は三つの首を引っ提げて長可の前に出て、「16の首を捕り申した」と豪語した。

訝る長可に才蔵は、「捕った首が多く、捨てて来た。但し捕った首には、笹の葉を口に含ませ置いて参った」と申し立てたので、早速調べさせると、笹を含んだ13の首が見つかった。この時から彼は、笹の才蔵と呼ばれるようになる。

『芸州誌』は才蔵の関ケ原合戦の武勇を、「先陣を進み、槍を合わすこと28、敵の首を捕ること20騎、言語道断古今無し」と絶賛する。この才蔵の武功を家康は高く評価し、才蔵に陣を貸した福島正則は才蔵を500石で家臣に召し抱え、さらに746石に加増した。

才蔵は上杉謙信、明智光秀、真田信繁(幸村)と同様に、愛宕権現(勝軍地蔵)を深く信仰していた。その6月24日の縁日に参詣すると、1,000日分の御利益があるとされている。

福島正則の家臣として広島にあった才蔵は、60歳の慶長18年(1613年)の縁日、潔斎して甲冑をまとい、薙刀を持ち、床几に腰を掛けて息絶えた。いかにも戦争請負人として生きた、孤高で信念にみちた最期だった。

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