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可児才蔵、寺沢広高…もっと知られるべき戦国武将の「驚くべき逸話」

2021年03月24日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

 

率先垂範すぎる名君――寺沢広高

唐津城主、寺沢広高は倹約の人である。それは優れた人材を高禄で雇い入れるためで、1,000石の家臣が40人もいた。その人柄を表わす話が『翁草』にある。

尾張出身の広高と美濃出身の安田作兵衛国継は、立身出世を夢見た若き日に、「今は戦国の世である。槍先をもってどちらかが国郡の主になったなら、一方は1/10の禄をもって家臣にしよう」と約束した。親友の二人は、仕えた主君によって明暗が分かれた。

作兵衛は明智光秀に属し、本能寺の変で大活躍した。織田信長に一番槍をつけて負傷させ、信長寵愛の小姓森蘭丸を討ち取って、明智軍で最大の武功を立てたが、光秀の天下は11日で潰えて、武功は霧散し、逆にお尋ね者になってしまう。

作兵衛は天野源右衛門と名を変え、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂のもとを転々とした。

一方、広高は豊臣秀吉に仕えて出世街道を歩み、31歳で肥前唐津城(佐賀県唐津市)8万石の城主になる。国郡の主となった広高は昔の約束を忘れず、作兵衛を招くと、石高8万石の1/10、8,000石で召し抱えた。作兵衛は平野源右衛門と改名し、安らかな晩年を唐津で送った。

そして広高は模範を示し、家臣を引っ張る行動派の大名だった。5月、6月は家臣に麦飯を食べさせたが、「家臣に食えと命じたからには、自分も」と麦飯を食べた。妻木貞徳の娘である妻もまた、常に木綿の衣服を着て、夫の意向に従った。

身をもって手本を示す広高は、毎朝寅の刻(午前4時)に起きて、陽の出の卯の刻(午前6時)には庁に顔を出した。それから馬場に出て騎乗し、汗をかいた後、食事をとって、すぐ槍刀の稽古をした。

寒の時期には若者たちのため弓の達人を招き、的の巻藁を自ら先頭に立って射た。夏は鉄砲の腕を磨き、水泳で身体を鍛え、皆と一緒に一汁一菜でご飯を食べた。夜、武芸に励む際は粥の類を一緒に食した。そして、普段は酉の刻限(午後6時)には寝床に入った。

関ケ原合戦で家康に味方し、4万石を加増され、12万石の大名になっても、夫婦は決して奢らなかった。そして倹約によってできたお金で、優れた家臣を雇用した。

現在、唐津を訪れると、唐津城はまちのシンボルとなり、海辺には防風林として植樹した「虹の松原」が、日本三大松原の一つに指定されて、私たちの心を和ませてくれる。ともに、広高の遺産である。

 

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