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各地に残る明智光秀「生存伝説」…未だ謎が残る“山崎合戦”敗北後の足取り

2021年02月16日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

 

死んだのは影武者。名を変えて関ケ原に参戦?

こうした生存伝説とは別に、『美濃志』では、小栗栖で死んだ光秀は実は影武者だったとする。

秀吉との戦いに負け、勝竜寺城で自害しようとする光秀を、荒木山城守行信が諫め、自ら光秀の具足をつけて身代わりになり、敵の目をあざむいた。それで光秀は生誕地でもある、現在の岐阜県山県市中洞に帰りつけたというのである。

江戸中期の尾張藩士の随筆『塩尻』などでも、光秀が小栗栖で野武士に殺されたのは噓で、実際は美濃に逃げ延びたとしている。身代わりになった荒木山城守行信とは、丹波八上城主・波多野氏の重臣で、波多野氏が光秀に滅ぼされた後、光秀に仕えたと思われる。

光秀は行信からの恩義を忘れないために、荒木の「荒」と、深い恩義から「深」をとって「荒深」を苗字とし、名も「小五郎」と改めた。

光秀は徳川家康を以前からよく知っており、信頼に足る武将と評価していた。そこで慶長3年(1598)春に江戸へ出向いて密かに会い、事ある時は味方したいと申し出て家康を喜ばせた。

その2年後、関ケ原合戦に親類を率いて出陣したが、路次、増水した藪川で馬もろとも流されて溺死したという。享年73、わびしさが漂う最期である。

中洞伝説では、光秀の父は土岐四郎基頼、母は豪族の中洞源左衛門の娘松枝ということになっている。

光秀は大永6年(1526)の生まれで、可児の明智城で、軍学兵法を明智光綱に学び、その利発さに感じ入った光綱が、自分の養子にしたとする。

かつての光秀の隠宅跡とされる、中洞の白山神社の一角に、光秀の産湯の井戸とともに、通称「桔梗塚」と呼ばれる、高さ1メートルを超す2基の塔墓がある。

五輪塔下には、荒深小五郎として死んだ光秀の遺体、宝篋印塔下には経文が埋められたと伝わっている。

 

黒衣の宰相・天海大僧正は光秀だった!?

光秀生存伝説の極めつきは、徳川幕府黒衣の宰相・天海大僧正になったとする、歴史ロマンに富む変身説である。

南光坊と称される天海は、陸奥国高田(福島県会津美里町)の出身で、比叡山で天台学を学び、三井寺や南都で俱舎・華厳などの教学、また密教・禅を修めたと伝わる。

だが弟子に対して「自分は誕生日も、生まれた場所も、俗名も忘れた。僧籍にある者に俗人だった昔を語る必要がない」といい、自分の過去を一切語らなかったという。そのあたりが「光秀=天海」伝説が生まれる素地になったと思われる。

さらに、光秀一族の墓がある西教寺から北約800メートルの地、比叡山飯室谷の松禅院には、「奉寄進 願主光秀 慶長20年2月17日」と刻まれた石灯籠がある。

天海が修行した比叡山に、光秀銘の石灯籠があり、光秀が小栗栖で死んだことになっている年の33年後にあたる「慶長20年」と刻まれているのである。これが、光秀生存の証拠とされ、天海への変身説を生んだ。

また光秀は、京都と若狭を結ぶ周山街道に、穴太衆を使って、高い石垣を築かせ、天守を揚げた山城・周山城(京都市右京区)を築いた。

この麓に位置する曹洞宗の慈眼寺には、光秀の黒塗りの坐像と位牌がある。「慈眼」は天海の大師号であるところから、これも「光秀=天海」説の根拠になった。

天海は慶長四年に喜多院の住職となり、翌年の関ケ原合戦直後に家康との知遇を得て、その絶大なる信頼のもと、幕府成立にかかわる主要人物となる。

天海は家康が死去すると、仏教と神道を融合した山王一実神道により、家康の遺体を久能山(静岡市)から日光山に移した。天海はすでに家康から、日光山光明院一帯の寺領を賜っていたのである。

そして、東照大権現という勅諡号を後水尾天皇から賜り、日光東照宮の造営を差配した。

光秀=天海同一人説が唱えられるようになったのは明治後期以降といわれ、東照宮の装飾に光秀の家紋である桔梗の紋が見うけられるとして話題になった。

しかも天海が奥日光を踏査した際、最も風光明媚な場所を「明智平」と命名したというのだ。こうして「光秀=天海」説は、大いにもてはやされるようになる。

東照宮正門の守護神として、入り口左右に武者像が安置され、桔梗紋が装飾されていることから、右の武者は光秀、左は娘婿で勇将の秀満に違いないとする説まで生まれた。

ただし、これらの説を否定する説も存在している。

東照宮正門の武者像に装飾されている桔梗紋は、中国渡来の唐花紋であるらしいこと。比叡山の石灯籠に刻まれた「光秀」の名は、松禅院の隣にある長寿院の二世住職・是春の初名であることが分かった。

また慈眼寺の光秀坐像と位牌は、もとは近くの密厳寺にあったもので、光秀はこの寺の観音菩薩を信仰していたが、密厳寺が廃寺になったため、移されたらしいということである。つまり、「慈眼寺」の寺号をもって「光秀=天海」説の根拠とするのは無理がある、ということなのだ。

天海は入寂百八歳と長寿をまっとうした。三代将軍・徳川家光の乳母・春日局と懇意で、天海と、大奥の支配者となった春日局とが両輪になって徳川の政治を動かした。

春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘である。斎藤利三は光秀の妹の子ともいわれている。

明智家の汚名を濯ぐことに命を張った春日局を、天海は側面から支援した。その事実が「光秀=天海」説を生んだ要因の一つかもしれない。

 

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