2021年02月16日 公開
2022年12月07日 更新
岸和田市にある妙心寺の末寺・本徳寺は、全国で唯一、光秀の肖像を有している寺である。地元の伝承では、光秀は一時、京都花園の妙心寺に身を隠し、その後、和泉に身を寄せたという。
妙心寺は光秀側に対し、非常に友好的な寺院で、葬儀の記録はないものの、天下人・豊臣秀吉を恐れずに十三回忌を執り行っており、仏殿には位牌もある。
複数の僧侶が日々確認し、誤記はないとする同寺の日単簿には、「明智日向守光秀法名明叟玄智、天正11年6月14日死。十三回忌は文禄4年に当たる」との記録がある。
記録が正確なら、光秀は山崎合戦の後、1年間生きていたことになるのである。ただし、これは光秀の没年を誤魔化し、遅れて葬儀をしたことを暗示しているとも推察される。
妙心寺の塔頭・大嶺院 (廃寺)の密宗和尚は光秀の叔父で、光秀とは親しく付き合っていた。
彼は天正15年(1587)、光秀の菩提を弔うため、蒸し風呂を建立した。これは「明智風呂」といわれ、国の重要文化財に指定されている。
光秀の嫡子・十五郎光慶に関する伝承も、本徳寺や妙心寺に残されている。
光慶は、本能寺の変直前、連歌会「愛宕百韻」に加わり、光秀が「ときは今天が下しる五月哉」の発句を詠んだのに対し、「国々は猶のどかなるころ」の句を詠んで、百句目を結んでいる。
その後、山崎合戦には参加せず、丹波亀山城(京都府亀岡市)を守備、そこに山崎合戦に勝利した秀吉軍が襲来し、殺害されたといわれている。だが、光慶が殺害された確証はなく、生き延びて妙心寺を頼り、僧になったとする説が、現実味をもって伝わっている。
かつて妙心寺には瑞松院という塔頭があり、そこに玄琳という僧がいた。この玄琳こそ、光秀の嫡子・光慶に違いないというのである。
その傍証の一つが瑞松院の存在そのもので、光秀の娘婿・細川忠興がここの有力檀家になっており、玄琳に対し、忠興・ガラシャ夫人の支援があったことが想像される。
瑞松院で修行し、一人前になった玄琳は、南国梵珪と僧名を変えて、本徳寺を開いたという。
梵珪が本徳寺を開基した当時は、海雲寺と呼ばれ、貝塚市鳥羽にあった。光秀は、梵珪が海雲寺を開くと息子を頼り、僧になったとも言われている。
本能寺の変、山崎合戦後の父・光秀と、嫡子・光慶との人生がここに交錯するようである。
本徳寺に残る光秀の位牌には、「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」との戒名がきざまれており、そこには、「光秀」(傍点を付けた二字)の名前が隠されているとされる。そして位牌の裏には、慶長4年(1599)に当寺を開基したと記されている。
さらに光秀の肖像画が残る。肖像画には、慶長18年(1613)6月6日銘の妙心寺90世・蘭秀宗薫による賛文が記されており、「般舟三昧を放下し去る」の一文がある。
これは「心に阿弥陀を想ってやまない修行を投げ捨てて去った」という意味で、仏門を捨て、姿を消したことを示している。
そしてこの光秀の肖像画だが、寺を開基した慶長4年に描かれたものなのか、それとも賛文が書きこまれた同18年の間に描かれたものなのか、はっきりしないが、『明智軍記』の享年を基準にすると、寺を開基した年には72歳、寺を去った年には86歳になっていたはずである。だがこの肖像画は非常に若々しい。
それもそのはずで、光秀にそっくりだったという梵珪をモデルに描かれたとされるからだ。
賛文からすれば、光秀は86歳で仏門を去って、自由な人生を選んだことになる。しかしこの後の行方は杳として知れない。
なお海雲寺だが、岸和田岡部氏2代藩主の行隆が、江戸期の寛文2年(1662)に岸和田への移転を命じ、寺号を本徳寺と改めている。
更新:11月05日 00:05