2020年03月30日 公開
2023年01月12日 更新
明智光秀の前半生はに包まれている。研究の最前線では、どこまでわかっているのか。PHP新書『戦国時代を読み解く新視点』より、明智光秀の出自に関する谷口研語氏の考察の一部を抜粋して紹介する。
系図や軍記などでは享禄元年(1528)の生まれとするものが多いが、他にも大永6年(1526)説、永正13年(1516)説などがある。
細川忠興おに嫁いだ娘の珠(玉・ガラシャ)は永禄6年(1563)の誕生とされており、イエズス会宣教師の報告では、天正10年(1582)、坂本城の落城で死んだ光秀の「長子( 自然丸)」は13歳だった。これら子供たちの年齢から推測すれば、光秀の生年は享禄元年ごろとしていいのではないだろうか。ただし、あくまでも「そのころ」としか言えない。
生誕地については、あちこちの自治体が名乗りを挙げているが、それらを個別に全否定することは不可能で、逆に全肯定することも不可能だ。なぜなら、それらはすべて江戸時代以降の「伝説地」であって、確たる証拠がないからだ。
生誕地を特定することは不可能だが、出身地が東美濃だろうというところまでは絞り込めると思う。
まず、光秀にはかなり近い続き柄の「美濃の親類」があった。また、光秀の家臣に可児氏、重臣に高山次右衛門がいる。さらに、光秀の妹で信長に仕えていた女性が「妻木」と呼ばれている。
可児は東美濃可児郡の郡名、高山と妻木は東美濃土岐郡内の地名だ。高山・妻木両氏はともに土岐支族の名字でもある。
これらを総合すれば、光秀自身か光秀の父の代には、東美濃の土岐郡・可児郡あたりに本拠があったことは確かだろう。
土岐氏は美濃源氏の名族で、南北朝動乱の初頭から200年間にわたって、美濃の守護を歴任してきた。その間、きわめて多くの支族を分派したが、その一つが明智氏だ。
土岐明智氏の成立は古く、すでに南北朝初期には明智の名字が生まれている。名字の地はおそらく美濃可児郡明智荘だろう。
土岐氏は、主流の守護家が美濃に強大な勢力を築いただけでなく、多くの支族が室町将軍の親衛隊というべき「奉公衆」に名を連ねており、その数は十余家に及ぶ。明智氏もその奉公衆の一員だった。
ただし、光秀の系譜が奉公衆の土岐明智氏につながるかどうか、その点について私は否定的だ。
光秀が土岐氏の出身であることは、比較的良質な史料で確認できる。一つは『立入左京亮入道隆佐記』で、光秀のことを「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」としており、もう一つは『遊行三十一祖京畿御修行記』で、「(光秀は) 濃州土岐一家牢人たりし」とある。
ただ、光秀が土岐一族の一人であるとして、気になることがある。それは光秀の妹が「妻木」と呼ばれていることだ。
妻木という呼称は、信長に仕える以前、この女性が妻木氏に嫁いでいたか、実家が妻木氏だったか、そのいずれかによるものだろう。後者だとすれば、光秀も土岐妻木氏の出身だという可能性がある。
京都や奈良の人々にとって、土岐一族と言えば、美濃守護家以外では奉公衆の土岐一族しか馴染みがなかっただろう。
明智氏は奉公衆だったが、妻木氏は奉公衆ではなかった。しかも、奉公衆の土岐明智一族からは、応仁の乱のころ、京都の歌壇で名を成した人物が出ている。
光秀が京都で活躍したいという野望を持っていたのなら、妻木名字よりは明智名字の方が有利だったはずだ。そう考えると、光秀がある時点で、妻木から明智へ改姓したということもあり得たのではないだろうか。