2020年03月30日 公開
2023年01月12日 更新
斎藤道三の室「小見の方」は東美濃の明智氏の女性で、道三と小見の方との間に生まれ、のちに織田信長に嫁いだ娘の名は「帰蝶」、帰蝶と光秀は従兄妹である、という説が一般に流布している。
この説の出どころは『美濃国諸旧記』だ。道三の娘が織田信長に嫁いだことは史実としていいが、娘の名前は不詳。『美濃国諸旧記』の史料としての価値は低い。どちらかと言えば、歴史物語として読むべき書物だ。そう読めば、作者のセンスが光る女性名ではある。
光秀が道三の家臣であったかどうかも、これまた不詳と言うしかない。
そもそも道三の支配が、東美濃にまで及んでいたのかどうか……。道三が美濃のどれだけの範囲を支配下に置いていたかさえ、まだはっきりとはしていない。
その点、道三は東美濃に勢力を拡大すべく明智氏の娘を娶った、とする『美濃国諸旧記』の筋書きは、それなりに的を射ているのかもしれない。
道三時代の美濃一国の勢力分布について研究が進展すれば、明智氏についても、何らかのヒントが得られるのではないかと期待している。
弘治2年(1556)の斎藤道三・義龍父子の長良川合戦で、立場に窮した明智一族は明智城に立て籠ったが、義龍の勝利後、義龍の軍勢に攻撃されて落城した。落城直前に光秀と幾人かの一族が城を脱出し、美濃郡上郡を経て越前へ逃れたという。
この俗説の基本的部分は『明智軍記』の設定によっている。
『遊行三十一祖京畿御修行記』には、「(光秀は)濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼り申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」とある。光秀が足利義昭上洛の年、永禄11年(1568)に越前を離れたとすれば、その10年前は永禄元年(1558)ということになり、弘治2年とは2年の開きがある。
「十ヶ年」というのが正確な年数なのか概算なのかがわからないので、何とも言えないが、越前へ行ったのが長良川合戦が原因だとすれば納得できなくもない。
『明智軍記』の作者もそう考えたのだろう。作者の作った筋書きであって根拠はないものと思う。だからと言って、その筋書きを否定する根拠もないのが現状だ。
10年間かどうかはともかく、光秀が一時期、越前にいただろうことは、朝倉氏滅亡直後に光秀が朝倉氏の旧臣服部七兵衛尉に宛てた書状からもうかがえる。
この書状で光秀は、服部が「竹」という者の面倒を見てくれたことに感謝し、服部に百石を与えるとしている。
竹は光秀が越前在住中に所縁のあった人物で、光秀が越前を離れたのちも越前にとどまっていたものと考えられている。
美濃の土岐・斎藤(道三以前)両氏と越前朝倉氏とは、古くから政治的・軍事的に緊密な交流があったから、美濃に変事があった際、美濃守護土岐・守護代斎藤両氏の関係者が越前へ逃亡することは、不自然ではない。
俗説では朝倉氏を頼って越前へ行き同氏に仕えたとされているが、朝倉氏を頼ることはあり得ることとしても、朝倉氏の家臣になっていたかどうかは確認できていない。
更新:11月23日 00:05