2020年02月10日 公開
2022年06月02日 更新
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は仁明天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
冬嗣は藤原北家、右大臣・藤原内麻呂(房前の孫)の次男である。房前邸が武智麻呂邸の北にあったため、房前の末裔は北家といわれるようになり、房前が北家の祖となる。
皇紀1502年= 承和9年(842年)7月、「承和の変」が起きて皇太子・恒貞親王が廃され、8月4日に道康親王が16歳で立太子される。そして変の解決にあたった藤原良房(冬嗣の次男)の娘・明子(あきらけいこ)が道康親王(文徳天皇)の女御として入内する。
皇紀1510年=嘉祥3年(850年)3月21日、天皇は皇太子・道康親王に譲位され、4月17日、「即位の宣命」を発せられ、道康親王が文徳天皇として24歳で即位される。
天皇が東宮だった頃に女御として入内した良房の娘・明子が、譲位を受けられた直後の3月25日に第四王子・惟仁親王(清和天皇)を産まれる。
11月25日、「皇太子を立て給ふの策命(和文体の宣命)」を発せられ、生後8ヶ月の惟仁親王(清和天皇)を皇太子に立てられる。第一皇子の惟喬親王(母は紀名虎の娘・静子)、第二皇子で同母弟の惟条親王(これえだしんのう)、第三皇子・惟彦親王(母は滋野奥子)らを差し置いての、しかも生後8ヶ月という幼児で立太子された。
これほど幼くしての立太子は先例のないことであったが、良房の権勢によるものである。良房としては外孫となる惟仁親王の後嗣としての立場を早く固めておきたかったのである。そしてこれが先例となって、以後、この形態を時の世俗権力者が目指すようになる。いかに幼くても、年齢に関係なく、外孫を立太子させるという、これまでにはない皇位継承が行われ、皇位継承の在り方が激変する。
誰しも娘を皇子、皇太子、天皇に入内させ、義父、外祖父といった立場を得たいと願う。そのために抗争がしばしば起き、藤原氏の他氏排斥事件(藤原氏以外の氏)、他家排斥事件(同じ藤原氏の他家)が起きて、立太子、譲位、天皇即位に大きな影響を及ぼすようになる。この良房は不比等の五世孫である。
皇紀1517年=斉衡4年(857年)2月19日、藤原良房が太政大臣宣下を受け、人臣初の太政大臣となる。
斉衡4年4月21日、元号が天安に改元される。
皇紀1518年=天安2年(852年)8月23日、文徳天皇が突然ご不例に倒れられる。皇太子・惟仁親王は9歳とまだ幼く、天皇としては第一皇子の惟喬親王にまず即位させ、第四皇子・惟仁親王の成長を待って皇位を譲ることを望まれた。しかし惟仁親王(清和天皇)の義父である太政大臣・良房が外孫・惟仁親王の即位を願っているので、これを憚り、惟喬親王(15歳)の身のことも思いこれを断念された。
この月27日に文徳天皇が崩御される。在位9年(8年4ヶ月余り)、32歳であった。
良房は天皇といえども遠慮されるくらいの権勢を誇っていたということである。惟仁親王(清和天皇)の即位は外祖父・良房の意向が大きく影響している。
更新:11月22日 00:05